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 其処に於いて、私は幼い令嬢だった。ずっと、中世風の屋敷の中を歩き回っていた。「何か」を探して。捜し当てる為になら、何の苦労も厭わなかった。高所を見る為ならば、椅子を積んで上り見て、棚と床の間の狭い空間を見れば、短い手を必死に伸ばして、可能性を掴もうとした。そして私には、その「何か」しか見えていなかった。

 それはある日のこと。私はエントランスにいた。屋敷の中は知る限り全てを探し尽くして、もう後は庭、ひいては更に扉の向こうの、禁じられた外の世界にしかないだろうと気付いたから。私は扉に手を掛けた。

「お嬢様、お待ち下さい」

 伸ばした手は、驚きと共に引っ込められた。見つかってしまった。きっと、叱られ、言い付けられ、更にまた叱られるに違いない。私はひどく怯えた。そして、使用人の叱責、目を閉じて覚悟した。

「探し物でしたら、此処にありますよ」

 告げられた言葉は、あまりに意外なものだった。開いた目の先には、私が探し求めていた「それ」が、掌の上にあった。その先の使用人の眼は、とても温かであった。














1/1461に見た夢は













 眠い。

 眠い寒い眠い寒い眠い寒い眠い寒い眠い寒い。

 嗚呼、起きたくない。醒めたくない。もっと眠らせて。温もりの殻の中で、私をねむらせ……



「いい加減起きろ、っての!」

 その声を聞いたと同時に、腹部に圧迫感。無理矢理に眼をこじ開けられた先には、いつもの見知った顔があった。

「葵、起こすんだったらさぁ、もうちょっと優しく起こしてくれないかなぁ?」

 瞼を引き離す指を払いのけて、霞む眼を擦った後、跨がる妹を少しムッとした顔で睨んでみた。

「こうまでしないと起きないのは何処の誰?」

「うぅ……だって、眠いんだもん、寒いんだもん。いーじゃないか別に」

「良くない」

「葵さんのいぢわる」

 強引に蒲団を引っ張り、私は深く中に潜り込んだ。

「意地悪だったら起こさないでしょう? 姉の大学での成績を想う心優しい妹を持って幸せね、安里さん?」

「単位なんかより、私には朝早く起きる方が苦痛なの。ああもう、朝の馬鹿野郎。だいっきらい!」

「うわ、それが有権者になる寸前の人の台詞ですか。有り得ない。日本終わったね、こりゃ」

「あと丸一年はモラトリアムがあるから平気よ。それより、今何時?」

「えっと、七時三十……げっ! ヤバい、あたしが遅刻するっ!?」

 なんのかんの言っていると、どうやら葵の方が時間になってしまったらしい。にしても、大学生である私よりも中学生の妹の方が朝が早いとはどこか可笑しいな、と最近は思う。朝の弱い私にとって、この状況は大歓迎なのだけれど。

「あああっ、マズいヤバい! まだ着替えも髪梳かしてもな……って、お姉ちゃんはニヤニヤするな! 食パンあるから焼いて食べてこい!」

 確かに、あまり茫としている暇はない。私は葵に投げ遣りな返事をして、居間へと向かった。




 葵が学校へと飛び出していった頃、私は一通りの身支度を終え、朝食をジッと眺めていた。朝食のパンの上を流れる、溶け出したバター。湯気を立てる、カップの中のインスタントのコーンスープ。眠い。眠すぎる。少しくらい眠ったって、罰は当たるまい。少しずつ、意識が、遠く、とおく。

 不意に、右の太腿が揺れた。正確には、ポケットの中の携帯のバイブだ。急いで携帯を取り出してみると、そこに書かれていたのは、今日の二限が休講になったという大学からの報せだった。別に、先週の時点で教授からそのことは聞いていたので、嬉しさも何も無かった。けれど、このメールには、少し感謝した。今の自分の状況を、教えてくれたからだ。七時五十二分。最寄の駅のホームまでの時間は十分余り。一限の始業時間に間に合う最後の電車は、八時八分発。余裕は、ほぼ皆無だった。




 師走の始まり、肌寒い空の下は、早くも遠き飛行場の飛行機の音と、フェンスの向こう側にある街の喧騒が飛び交っていた。

 私が駅に駆け込んだとき、まだそこに私の乗るべき電車は無かった。どうやら少し遅れているらしく、乗客への軽い謝罪がホームに響いていた。

 それにしても、ここまで走ってきた筈なのに、まだ眠い。欠伸が幾度となく続く。特に夜更かしもしていない――葵に言わせれば、二時半は充分夜更かしの域に入るらしいけれど――のに、何故これほど眠いのだろうか。しかも、今日はまた寒い。上半身こそコートを着て凌ぐことが出来たが、脚は何を思ったかミニ。非常に、寒い。黒のニーハイを穿いていたのは唯一の救いだった。陽が当たれば、中々温かくなるから。

 そんなことを思っているうちに、例の八時八分の電車がホームに滑り込んで来ていた。目の前で二両目三番目のドアが開く。師走の底冷えした空気と車内の暖まった空気とが入り混じって、何か変な感じがする。そんなことを考えながら、流れに乗って席に座る。この駅は始発の次の駅だが、当の始発駅は乗客が少ないため簡単に座れるので、得な気がする。だけれど、席に着いてしばらくして、私は大きく溜息をついていた。かなりどうでも良いのだけれど、その席順にほんの少し後悔していた。左隣は女子高生、右隣は男子高生であったからだ。何故なら、大学生になって以降、その制服他諸々から湧き出ている“若さ”が、ひどく眩しいとともに、ひどく羨ましく感じてしまうから。先に言ったとおり、かなりどうでもよく、どうしようもないことなのだけれど。

 そんな糧にならぬ思考を巡らす私を乗せた電車は、そろそろ次の駅へと着こうとしていた。左の女子高生は、ずっと携帯のメール画面と睨めっこしている。文面が思いつかないのだろうか。右の男子高生は、やたらと欠伸をしていた。彼もまた、眠気に襲われているのだろうか。そんな様子を見ていたら、また私も眠くなってきた。先刻からずっと、くどいくらいだけど、眠気は消えてくれない。いや、寧ろ電車に乗って以来、更に増している。変な考えばかり浮かぶのも、きっとこの眠気の所為じゃないか、と思う。

 ちょっと居眠りするくらいならば構わないだろう。だけれど、今眠ると寝過ごしてしまいそうで、いやに怖い。何だか、そんな予感がする。起きていよう。今はまだ起きていたい。けど、意に反して、瞼は重くなり、意識は暗闇に行きかけていた。まだ、駄目だよ。まだ…………。



 走っていた。何処へ? わからない。私は何も考えていなかった。ただただ、走り続けていた。あの人に会うために。

「そんなに走らなくても、すぐ此処にいるよ」

 そう、貴方に会いたかった。此処にいたのね。私の……

「……ぁの、…………ん……」

 え、貴方の……?

「あの、すいませんが、起きて下さいませんか?」

 同じ声を二回聞いたような、妙な心地がした。けれど、言われるがままに閉じた瞼を、ゆっくりと開いてみた。

「……あれ?」

 風景には、やたらと違和感があった。車体は殆ど垂直になり、向かいの窓に映る肌寒い景色も、見覚えの無いホームも縦に延びている。外気と繋がっているのか、周囲は冷涼な空気に包まれ、座席に密着している筈の腰すらもひんやりする。スカートなので尚更だ。ただ、右頬は随分と温かい。置かれている状況が、よく解らなかった。

「お客さん、もう終点だよ。大丈夫かい?」

 下方から、濃紺の制服を着た、少し太り気味の腹部が視界に入った。視界を少し左にずらすと、帽子を被った中年の車掌であることが解った。

 しかし、先ほどの台詞は? 終点? まさかとは思うけれど……。

「どうやら、僕達は寝過ごしちゃったみたいですね」

 少し苦笑い気味の、すっきりとした声が私の予感を言い当てた。しかし、これが誰の声か判らない。頭が未だ起きていないのだろうか。状況を把握する為に、私は余り深く考えぬうちに、声のした左後方を振り返ってみた。

 そして、全力で後悔した。




「本当に、すいませんでした……」

 折り返し戻る最中、私はひたすら平身低頭、右隣に座った彼に謝りたおしていた。どうやら私は意識が飛んだ後、何らかの衝撃でこれまた寝ていた彼の膝元に倒れ、そのまま所謂膝枕状態で終点まで寝過ごしてしまったらしい。車掌――どうやら丁度車庫に向かうところだった為見回りに来たらしい――曰く、それはもうまるで恋人の様だった、とのことだ。ああ、何たる失態。

「そんな気になさらないで下さい。別に貴女の所為ではありませんよ。僕の不注意です」

「いえ、その、赤の他人に膝枕させてしまったりして……」

「まあ、良いじゃないですか。過ぎたことはもう忘れましょうよ」

 彼の顔を見ると、少々困惑しているような表情だった。この困惑は多分謝りすぎているからだろうか、とも思ったが、ここで急に開き直っても、心象は悪いと思う。曖昧に返答して、少しだけ間を空けた。

「小橋、小橋です。次は鈴蘭台に止まります」

 沈黙を破る、無機質な女性の声。それが聞き慣れぬ場所を告げ、合わせてドアが開く。思えば、結構な時間電車に乗っているが、一向に目的の駅が見えてこない。駅の名も殆ど聞いたことの無いものばかりで、本当に辿り着けるかどうかも気になってきていた。

ふと、彼の顔を見遣った。が、私はすぐにその目を逸らしてしまった。理由は単純。彼がジッとこちらを見つめていたからだ。その眼は強く、意思が篭り、それなのに、何故か温かさが見える。関係ないけど、肌は健康的な色でいて荒れた様子は無く、鼻梁はすっきりと通り、髪型もウルフカットが見事に似合っている。と言うか、今更気がついたのだけれど、彼は思った以上に顔が好みに近いのだ。寧ろ、ほぼ理想通りと言っても良い。いや、理想だなんて考えたことなんて無い。精々『こんな感じが良いな』と思った程度……って、それが理想と言うヤツか。ああ、如何しよう。頭が混乱してきた。顔もやたらと熱い。きっと上から下まで真っ赤になっているに違いない。熱い。熱い熱い熱い。暖房を利かせすぎなのではないだろうか? いっそのこと、そうであってほしい。そうなのでしょう? お願いします車掌さん。ああ、この心地、一体どう表したら良いだろう? いや、何か一言で表せる語があったような気がする。何だっけ? …………出てこない。マズい、相当のパニック状態だ。こういう時はどうしたら落ち着けたっけ? そうだ、素数だ。素数を掌に書いて後頭部を叩けばいいんだっけ? それにしても、さっきから頭の中が疑問文だらけだ。大丈夫なの

「……あの、大丈夫ですか?」

「え、あ、は、はいっ?」

 一瞬、心を読まれたかと思った。思わず振り返って答えるも、声は裏返るわ、勢いよく振り向いた所為で少し首が痛くなったりした。

「あ、いえ、ずっと俯いたままだったので、何かしてしまったかと思って」

 確かに、私はずっと黙っていた気がする。黙ってアレコレ考え続けていた。考えていたのは……あ、しまった。また熱くなってきた。顔が赤いのがバレてしまったら恥ずかしいことこの上ない。こんな訳のわからないシチュエーションで頬を赤らめて、唐突に何らかの感情を抱かれている、と知られたら。厭だ。なんだかよくわからないけれど厭だ。そして、私は目線をまた下方修正することを決めた。

「それに、なんだか顔も紅いみたいなので……」

 が、バレてた。あっさりとバレた。どう説明したら良いのだろうか? ああ、何かもう、全く思いつかないや。思考がオーバーヒートで停止しまったようだ。如何しよう。膝の上で握ったままの掌はもう汗だく。あはは、誰か私を助けて。

「もしかして……」

 もう、感情まで読まれてしまったか。そう、思った。観念して、彼がドン引きする姿を想像して身構えた。

 さぁ、来い。もう心の準備は出来た。笑いたければ笑ってくれ。こんなトコで一目惚れしたこの私を……ん?

「もしかして、風邪、ひかれたのですか?」

 丁度何かに気付いた瞬間、目前の彼はひどく古典的なボケをかましてくれた。彼は鈍いのだろうか……? しかし、このチャンスを生かさない手は無かった。

「あ、えっと、そ、そうかもしれません!」

「え、じゃあそしたら」

「いえ、お気遣いは無用です! 毎日こんな感じなので!」

「へ??」

 こうなったら、勢いで突破に掛かるしかなかった。多少変な表現もご愛嬌だ。

「大丈夫です! 小学生のときから出席確認のときは『はい、風邪気味です』って答えてましたし!」

 なんか、捨て身で芸をしているような気分になった。けれど。

「ぷっ…………くく……」

 彼は、必死に笑いを堪えていた。どうやら、気を逸らすことには成功したらしい。ふぅ、と達成感に因る溜息を吐いて、もう一度彼を見た。彼の笑顔――押し殺しているけれど、その点は気にしない――は、とても可愛らしく感じられた。

 彼は一頻り笑い終えると、いきなり私の頭の上にポンと手を置いた。

「それでしたら大丈夫でしょうけど、無理はしないで下さいね」

 半分笑いながら、彼はそう言った。私は、その言葉に頷くのが精一杯だった。

「間もなく千代野、千代野です。千代野線ご利用の方はお乗換えです」

 ふと気付くと、もう私が乗換えをする駅であった。彼には軽く会釈して、電車を後にした。



 ところで、彼は気付いたのだろうか? 私が……彼に一目惚れしてしまったことに。

 そして、私は気付いた。彼の名前を、聞き忘れてしまったことに。




 そんな師走の初めの出来事以降、私に一限の授業がある火・水・金・土曜の八時八分発の電車では、必ず彼の姿を見ることが出来た。そして、必ず彼は私に笑顔で会釈してくれた。私もそれに応じて一緒に登校……することは出来なかった。奥手な私は、その彼に少し笑顔を返すだけでそそくさと人波の影に隠れてしまっていた。分かったのは、彼が三倉駅で降りることから、彼が通う高校が三倉高校であるということ、暗記帳を持ち歩いていることから受験生であろう、というくらいである。

 多分、話しかければ彼は笑顔で応対してくれることは、何となく想像できた。けど、ほんのちょっとの出来事で知り合った相手である。そんなに話しかけても、受験生な彼にはうざったいかもしれない。

 想いはブレ続けたまま、冬季休業になり、年は明けた。どのくらい想い続けていたかと言うと、クリスマス当日にその行事の存在を思い出したり、総じて睡眠時間が減って、葵の朝の仕事を今まで以上に忙しくさせるくらいだった。後者に関しては、少しお詫びをしたいくらいだけど。


 高校で新学期開始、大学で授業再開となる日も、彼は同じ電車、同じ車両、同じ場所にいた。そして、年が明けても私は同じような行動しか繰り返せなかった。会釈を返して、二人、又は三人向こうにいる彼の姿を見て、日々想いを募らせてゆく以外、私には何も出来なかった。ただ、名も知らぬ彼への想いを、膨らませるだけであった。



 そんな私に転機が訪れたのは、一月第四週の火曜日だった。

 私はキョロキョロと、車両の端から端を、見える範囲でだけど探してみた。けれども、彼の姿を確認することは出来なかった。正直言って、驚いた。まさか彼の姿を見ない日が来るとは、思いもしなかったのだ。

 でも、水曜も、金曜も、土曜も、遂に見かけることは出来なかった。そして、その次の週も見つけることは出来ず、睦月はあっさりと終わった。

 私は、呆然とした。完全にタイミングを逸してしまったことに気付いてしまったから。てっきり、時間は無限にある、と思い込んでいたのだ。

 彼が何故いなくなったのかは、私にはまだわからない。けれど、桜咲く時期までにまた会うことが出来なければ、ずっと会えないのだろうな、という予感だけは、何となく感じた。根拠なんて全く無い、ただの勘だけど。




 暫く経って、私は十五になった。あれ以来、その使用人とは何かと共に過ごしていた。何をするのでも、しないでも、いつでも彼を傍に置いていた。どうして彼がよかったか、なんて理由は知らなかった。知らなくて良かったのだ。

 しかし、彼は急に解雇された。父親に問い質すと、家庭の事情だ、と突っぱねられた。しかも、それと同時に婚約者の存在を知らされた。

 気が付くと、私は屋敷を飛び出していた。追いかけてくる執事やメイドから這う這うの体で逃げて、私は何も識らぬ街の中で生きることになった。

 彼への想いだけを、その胸に抱いて。



 二月に入ると、大学はテスト期間となり、例の時間の電車に乗ることが少なくなっていった。テストが終われば、大学は春休みに入る。ただでさえ少ない機会は更に失われるだろう。それどころか、自分の朝の弱さを鑑みると、ほぼ零である。

 彼が、ひどく遠くに感じられた。




 彼の行方は、全く知れなかった。何しろ、私が知っているのは、彼の顔と出身地だけ。姓も名も他の何も識らないで、彼を慕い、想っていたのだ。あてのない、果てのない、ただただ遠い、聞いた方角と大まかな距離だけが頼りの、彼の故郷への道だった。



「ねぇ、葵?」

 それは、二月も終わりが見えた頃のこと。私は葵にひとつ、質問を投げかけてみることにした。

「何? どうかしたの、お姉ちゃん?」

「高校生ってさ、今の時期に何してるかな?」

「そんなの、あたし中学生なんだから知らないよ」

 ダメもととは思っていたけれど、ここまで連れない答えが帰ってくるなんて、思っても見なかった。もうちょっと協力的な答えを、この子は出せなかったのだろうか? 確かに見当違いな質問だったけど……、なんて、聞いたことをちょっと後悔した。

「大体、去年まで高校生だったのはどこの誰?」

 だけど、妹はよくよく考えると的確な答えを私にくれた。そう言われれば、私の方が去年まで高校生をやっていたのだから、イメージも簡単に出来るだろうに。どうして気付かなかったのだろう。

 そして、ふっ、と三年生だったときのことを思い出す。そうだ、この時期は受験が忙しかったんだ。高校も、センター試験以降は数日の登校日以外は全て休みにしていた。そして、そのセンター試験の日取りと言えば、一月の第三土曜と日曜。どうしてこんな簡単なこと、思い出せなかったのだろう。何だ、答えは簡単だったじゃないか。

「葵、ありがとう! おかげで……あ。」

 けど、同時に気付いてしまった。理由がわかったところで、また彼に会えるわけではない。彼は、二度とあの時間の電車に乗らないかもしれない。



 気がつくと、其処は暖かくて、甘い匂いで一杯になった空間であった。あちこち軋む身体を無理矢理起こして周囲を見渡すと、此処が何処かの山小屋の中だということがわかった。そして、コーンスープとパンを持った、無表情な女性がいることにも、気がついた。

 どうやら、私は近くの森の中で倒れているところを、狩猟の最中であった彼女に助けてもらったらしい。家を出てからこれまで、まともな食事をほとんど摂っていなかったためだろうな、と私は思った。唯のパンとスープが、ここまで美味しいと思えるのだから。

 彼女の小屋に居候して一週間が経ち、私はまた旅立つ決意をした。勿論、彼女への恩義は感じている。いつかこの礼を返したいと言ったが、彼女はそれをあっさり断った。理由を尋ねると、

「ただ私は、獲物と思って近付いたら、それが生きた人間で、仕方ないから持って帰っただけよ」

 とだけ、言った。

 彼の故郷の方角を聞いて、私は再度、道を歩み出した。ある程度の食料と寝袋を渡してくれたときの彼女の顔は、相変わらず無表情だった。

 けれど、私の涙は、全く止まらなかった。



「一体、どうしろっていうのよ……」

 二月二十九日、三倉駅にて。私は非常に困っていた。話の流れからすると、また彼のことで悩んでいるようだけれど、今回は全く別のことで悩んでいる。私は時刻表を見て、苦笑いを浮かべた。

「あーあ……終電、逃しちゃった」

 私は半笑いで大きく溜息を吐いた。

 友人ら三人と飲みに出かけたのだが、二人して相当な悪酔いをしてしまい、その介抱に追われ、逆側のホームで二人を無事に送り出せたかな、と思っていざ自分が帰ろうと思ったら、この有様だった。ああ、二十二時台で終電になってしまうだなんて、田舎のバカヤロウ。

 何か物にあたりたい気分になったけれど、あたっても詮無きことは知っている。もう一度、大きな溜息を吐いた。一体どうやって始発を待とうか。財布の中身はあまり期待できないから、安値で済むことを考えていた。思いつくまでは、ぐったりとホームのベンチに寄りかかっていた。



 彼の町に辿り着いたのは、二月二十九日のことだった。どこにでもあるような、典型的な田舎町、と聞いていたけれど、畑に林だらけの、本当の田舎だった。けど、どこか懐かしい匂いが、其処彼処からしていた。彼は、きっと此処にいる。そう、信じられる感じがした。


 ふと、目を覚ます。どうやら、眠ってしまっていたらしい。こんな寒い中で寝てしまっては、風邪をひいてしまう。そう思い、私は腹の上にもう一枚あった上着を顔の辺りまで引き上げた。

 けど、ここに違和感があった。上着がもう一枚ある? よく見ると、私の上着ではない。

「あれ、目を覚まさせちゃいましたか?」

 ……待っていた。彼が、目の前にいた。



 彼の行方は、思ったとおりすぐに知れた。私は走っていた。何日も歩き続けて疲れている筈なのに、そんなことも知らないかのように、走っていた。

 そして、町外れの寂れた教会の扉に手をかけたとき、後ろから急に、腕が伸びてきた。


「そうだったんですか、やっぱり受験生だったんですね」

「ええ、それで、第一志望合格記念だー、って友達に連れまわされて。ホントにひどかったですよ、あいつらの騒ぎ方は」

「それで、こんな遅くになっちゃって」

「はい、終電なくなっちゃいました」

 彼とは、思った以上に、普段どおり話すことが出来た。正直言うと、ここまで自然に話せているのは奇跡に近いものだったりする。なにせ、心拍はやっぱり速いし、彼の逆側にある右手はギュッと握り締めてて、寒いのに汗をかいている。

「でも、貴女に逢えて、良かったです」

「……え?」

 今、さらっとすごいことを言ったような?

「僕、貴方にもう一度逢いたいな、って思っていたんです。センター以来、電車で逢うこともなくなってましたし……すごく、嬉しいんです」

 彼ははにかみ笑顔で、そんな恥ずかしい台詞を言ってのけた。

 これは、本音? 彼は本当にそう思っているのだろうか? 如何しても、彼の言葉の真意が掴めなくって、困惑した。



「アーサー! アーサー・コベット! いるんだろう! 姿を現せ! アンジェは此処にいるぞ!」

 それは、紛れも無い父の声だった。私は父に羽交い絞めにされ、銃を突き付けられていた。

 それほど経たぬうちに、彼は教会の扉を開けて、その姿を見せた。あのときよりずっと、やつれて髭も生えていたけれど、間違いなく彼だった。

「……ご主人様、アンジェお嬢様をお放しになって下さい。彼女は何も悪くない」

 彼は静かにそう言った。いつも私に見せてくれた眼と違う、冷たい眼で。

「戯け。コイツは儂の娘。如何しようと勝手だ。それに、使用人如きの言葉を聴くと思ったか」

 父もまた、いつもと全く違っていた。こんな父、見たことなんかない。

「アンジェお嬢様を、放して下さい」

それでも尚、彼は強い口調で父に迫った。

「そこまで言うか……成程、放してやろう」

 父は思ったよりあっさりと私を放した。けれど。

「だが……お前の死と引き換えだ!」

 父は、彼に銃を構えた。厭だ、止めて、撃たないで、お願い――



「……なんて、言われても驚きますよね?」

「あっ、い、いいえっ! 私も、逢いたかったです!」

 けど、何故か勢いで本音が漏れてしまった。ああ、しまった。やっぱり私は、普段どおりなんかじゃないみたいだ。彼の顔を見ると、やはり驚いているようであった。何だか、もう如何したらいいか分からなくなっていた。

「ずっと前から、初めて逢った日から、貴方に逢いたかったんです」

それでも、そのあとに私は言葉を続けていた。まるで、そう言うようにインプットされていたかのように。
「貴方と、ずっと話がしたかった。貴方と……ずっと一緒にいたいです。」

 遂に、言ってしまった。その台詞を。



 銃声が、響いた。飛び出した私の胸の下に、冷たい空気が流れる。

「……嘘だ」

 彼が一言、呟いたのが耳に残った。

 私の体は地面に投げ出され、私は立ち上がる力もなくて、そのまま伏した。

「わ、わわわ、儂じゃない、儂じゃない、儂がやったんじゃあー!」

 二度目の銃声は父自らを貫いて、遠くに消えた。

 彼は、フラフラと力なく、私の元に歩み寄り、跪いた。

「お嬢様、何故ですか! 何故、私なんかの為に……」

 何でこんなことをしたかなんて、わからない。別に、彼の為なんかじゃない。そう、きっと私の為よ。私が、貴方に死んでほしくなかったの。

「お嬢、さま……」

 情けない声なんか、貴方には似合わない。ちゃんとした顔をしなさい。

「お願いです……もう、喋らないで……」

 最期に、お願いがあるの。

「お嬢様……何なりと、お申し付け下さい……」

 私と、結婚して頂戴。

「何を、言ってらっしゃるのですか……私は貴女に釣り合いませんよ……」

 四の五の言わないの。今日は二月二十九日だって、知ってるでしょう? 断らせなんか、しないんだから。

「ははっ……全く、お嬢様は……」

 どうしようもない子で悪かったわね。あーあ、それにしても、こんなに空が明るくちゃ、眠くなっちゃうわ。お昼寝でもしていいかしら?

「ええ、どうぞ、ゆっくりお眠り下さい……」

 ちょっと寒いから、毛布をかけておいてね。それから、起きたとき、絶対隣に……いなさいよ、ね……。


 眠い。

 眠い暑い眠い暑い眠い暑い眠い暑い眠い暑い。

 相反する二つがぶつかって、私は混濁の海に流される。嗚呼、誰か助け……


「はい、起きろー。起きないと遅刻よー」

「……葵さん、重たい」

「重くて悪かったわね。けど、安里さんにはそのほうがいいでしょう?」

「はいはいはいはい、毎朝有難う御座いますー」

「はいが多いっての。こんなのが社会に巣立ってゆくだなんて、妹ながらとてもとても心配です」

「あーもう、五月蝿いなぁ。それより今何時?」

「えーっと、七時三十……嘘! あたしが遅刻するっ!?」



 桜咲く頃、私はいつもどおりに大学生している。変わったことは、二年生になって、一限の日が一つ減ったこと。だけど、私は一限の日でなくても、朝早く大学に向かう。いつもの、八時八分の電車の二両目、三番目のドアの近くで。

 そして。

「やっと来ましたね、安里先輩。後もう少しで電車来ちゃうトコでしたよ?」

「間に合ったんだから文句言わない! 朝弱いのに頑張ってるんだから、感謝してほしいくらいよ?」

「やれやれ、全く先輩は……」

「どうしようもない子で悪かったわね。あーあ、こんなに空が明るくちゃ、眠くなっちゃうわ。お昼寝してもいい?」


 今日も、二人で共に、生きている。







-Fin















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閉じて戻ってください。



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