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「私、一日に三分間だけ死ねるの」

 橙に染められた、打ちっぱなしのコンクリート。パイプと板で組まれた机と椅子たちの整然と並ぶ殺風景な教室。窓からはやはり少し橙がかった世界が見え、そのうち一つだけが開 け放たれていて、日没前の清涼な風が頬に当たる。五月の風は、柔らかな香りを持っていた。何故なら、その吹き込む入口の机に腰掛けた彼女がいたから。

「吃驚した? ――それはそうよね。しなかったら嘘よ」

 俺の唖然とした表情を見て、彼女は満足気に言った。遅い四月一日エイプリルフールの心算なのだろうかとも思った。

「けど、冗句なんかじゃないわ。これは本当の事。事実しか言ってないの」

 考えていることが顔に出ていたのだろうか、釘を刺されてしまった。本当の事、と言われても俺にどうしろと言うのだ。そもそも、彼女はどうしてこんなことを俺に――?
















ノキニタヒ














 俺は帰る間際になって忘れ物を思い出し、校舎内を歩いていた。吹奏楽部の練習する音が上の階からもこの階からも響いていて、統制の取れていない振動達に耳を塞ぎたくなった。

 けれども、その中で一室だけ、俺のクラスの教室だけはドアが閉められていて音も全くしなかった。どこか奇妙な感覚がしたが、そのときは全く気にも留めずにドアを開けてしまっ た。

 そこに、彼女がいたのだ。門倉叶香かどくらきょうか。クラスに馴染んでいない――正確には、馴染む気が無いのだろう か――浮ついた存在で、基本的には机か、窓越しの外か、手元の文庫の何れにしか目を向けておらず、取り付く島も無い、というのが彼女に対する一般的評価であった。彼女は俺の席 の後に座っているが、特に会話をした事も無い。通り道ですれ違うことも多々あったが、挨拶を交わすことも特にない。その彼女が、放課後暫く経ったにも関わらず教室に残っていた というのは、意外なことだった。但し、俺としては嬉しくない方向で。正直、俺は彼女のようなタイプが苦手で、それも手伝って丸っきり話したことがない。気まずい雰囲気にならな いように、手早く用件を済ませてしまおうと思っていた。

「――入澤匡亮いりさわただあきくん、でしょう?」

 その矢先、声をかけられたのだ。不意を突くこの発言に思わず振り向いたのが、そもそもの発端だったのだろう。ここで振り返らなければ、このようなことにはならなかったのだろ うか。そんなことを言っても詮はない。少なくとも俺がわかっていることは、振り向いた瞬間、彼女の切り揃えられた前髪の奥が、柔らかな朱色の唇が、間違いなく笑っていたことだ けだ。







 未だ答えを返せないでいる俺に興味を失ったのか、門倉は机から離れ、非常にゆっくりと教室の後方に歩み始めた。コツ、コツ、と一定の緩やかなリズムで床板を響かせて、その足 音は補修生徒の答えを急かす厳格な教師のようだった。

「てっきり、貴方には“心当たり”があると思っていたのだけど、人違いだったかしら」

 心当たり? そんなものは何も無い。俺にあるのはただ戸惑いだけ。見当違いも甚だしい。俺はゆっくりと顔を右に、門倉の方へ視線を向けた。

「そんな怖い顔をしないで。――そうね、少し話をしましょう」

 見つめた目線が睨んでいるように見えたのだろうか、彼女は少しだけ声のトーンを高くした。やっぱり、それほど表情に出ているのだろうか。

「――夢を、見るの。とても幸福そうな夢を」

 後ろのドア寄りの辺りで足を止めて、彼女は語り始める。無愛想な釣り気味の眼と同じ、どこか無機質な声で。

「私は、ある男の人と一緒にいる。ベージュ色をした暖かい部屋で、恋人みたいに寄り添いあって、甘い睦言を交し合いながら。到底、自分の出来事とは思えないシチュエーションね 」

 ふう、と溜め息を挟み、彼女は続ける。

「そして、その夢を見るようになってから――そうね、ここ二ヶ月間ずっと、私は三分だけ意識を失うようになった」

 彼女は俺の眼をじっと見て、逸らすことなく話す。そのため、俺は下手に視線を外すこともできず、蛇に睨まれた蛙のように身動きができない。

「別に意識を失っているだけなら構わないの。だけ、ならね。その間に、私の身体が動いているの。それも必ず、ある場所に向かって」

 何故、こんな妄言に付き合っているのだろう。リアリティーの感じられない話に、忘れ物すらどうでも良くなってきて、早く帰りたい気持ちで一杯だった。けれども、彼女は依然と して視線を離さない。一歩でも動けばきっと変わるのだろうが、踏み出すことができない。

「飽きてきた、って顔してるわね。じゃあ単刀直入に話してあげる」

 一歩、また一歩と、ゆっくりと俺に近づき始める。それでも、彼女の漆黒の瞳は俺から逸れない。いつの間にか握りしめていた掌がベタ付いて、イヤな感触がする。

「夢の中の人も、私が死んでいたときに向かっていた場所も――」

 俺まで残り数十センチのところで、彼女は足を止めた。彼女の目尻が少しだけ動いたのが、やけに印象的だった。

「――どっちも、貴方だったの。入澤くん」





    ◆     ◆     ◆





「――丁度三分、ね」

 後ろから突然聞こえてきた声と、さっきより勢いの増した風に、ゆっくりと目蓋を開く。その眼に飛び込んできたのは、沈みかけた橙の太陽、橙から濃紺へのグラデーションを見せ る空、そしてその手前に目一杯広がるビルや家。その壮大さを感じさせる風景に心奪われそうになるが、その景色が自分の一歩先にまで広がっている事実に気付き、一気に後ずさりし た。三歩も下がらないうちに背中に衝撃を感じて振り返ると、そこには三メートルはあろうフェンスがあった。――コレを乗り越えたのだろうか。この俺が? ついさっきまで教室に 居たはずなのに? 強く吹くビル風が冷や汗の道筋をさらに冷やした。

「何をそんなに驚いているの? 貴方が選んだ行為じゃない」

 そのフェンスの向こう側、少し離れた位置に門倉はいた。夕日の所為だろうか、肌の色が何故だか明るく見えた。

「ああ、でも嬉しい。貴方も私と同じ願いを持っているのね」

 俺がどうしてここにいるのか問おうとするより先に、彼女は恍惚に近いような表情を浮かべて言った。同じ願い? 脳のキャパシティーをオーバーしてしまいそうな出来事の連続だ と言うのに、彼女はまたも自分本位に話を進める。

「貴方も本当は――死を望んでいるのね」

 彼女は何を言っているのだろう。死なんて、生まれてこの方願ったことはない。あまりに突拍子もなく出てきた「死」という単語は、心臓の鼓動を妙に早めた。

「そう、望んでいるのよ。そうでなければこんな場所には来ないでしょう?」

 俺が、死を願っている? そんなはずはない、俺にはまだやりたいことが沢山ある。まだ将来すら見えないのに見切ったように全てを捨てることは、俺にはできない。できるはずが 無い。

「貴方が納得していなくても、私には貴方の真の願いがわかるわ。だって――」

 考えをまとめることのできない俺を差し置き、彼女はブレザーの左腕の裾を上げていった。そこにあったのは。

「――ほら、私だって死にたいのだもの」

 無数の赤い線が、か細い左手首を埋め尽くすように、何本も何本も引かれていた。リストカット。それを実行している人物が身近に居たことに、ただ言葉を失っていた。

「気付いていなかったのね、コレ。そんなに驚かれるなんて。――ふふっ、でもね、こんな所傷つけたって、簡単には死なないの。本気でやるときは、ココを一気に裂かなきゃ」

 頸動脈を指差し、その指を一気に引き抜く。まるで手本を示すかのように。徐々に視界が暗くなる。太陽が沈むのだろう。

「ああ、それとね――飛び降りなんて、私はあまりお勧めしないわ」

 思い出したように、左腕を袖の内に隠しながら彼女は言った。この会話で俺に委ねられているものはない。

「まず、こんな所5Fから飛んだってそうそう死なないわ。変に意識だけ残って、長い時間痛みを感じて、救急車の対応が速 ければ後遺症付きで生き残ってしまうかもしれない。自由に動けないクセに死ぬことも許されないなんて、死より辛いわ」

 背筋に寒気が走る。こんな説明ばかり妙にリアルで、加えてビル風の所為で体温がどんどん奪われていく。

「例え十二階より上のビルから飛んだって、全く奇麗じゃないわ。人間って脳が一番重いから、落ちるときは頭からいくの。下がアスファルトだったりしたらもう最低よ。間違いなく 頭蓋骨は弾けて、脳はぐちゃぐちゃ。その上、飛び出した眼球ボールは血と脳漿で色付けされて、穴から視神経 ヒモ付きで転がってる。打ち所によっては内臓だって曝け出したりもするわね」

 まるで現場を見てきたようで、必要以上の想像力が動員され、脳裏に映像を作る。気持ち悪い、気持ち悪い、イヤだ、嫌だ、厭だ――



 気付けば、目の前のフェンスを必死で駆け上っていた。彼女が気が付こうと、止まる必要はない。脇目もふらず、フェンスに囲まれた中に入り、逃げるように屋上を走った。屋上と 校舎内を繋ぐ重い鉄製のドアを開けたとき、後ろから声がした。

「私は、貴方と一緒になら死んでも良いと思っているわ。また明日、教室で会いましょう?」

 その声に振り返ることはしなかった。そんな余裕はどこにも無かった。それでも、その台詞が妙に耳にこびり付いて、離れなかった。





    ■     ■     ■





 ただ走っていた。脳裏にあのシーンが焼き付かないように、頭を振って全力で。代わりに必死で思い出す。楽しかった記憶、歓喜の記憶を。例えば、幼少期に隣の千代反 田ちよたんだ家と行った遊園地の思い出。幼馴染と共に色んなところに駆け回って、まだ俺の母が健在で、無理矢理連れ回した記憶が 、今でもありありと思い出せる。一番良い思い出、と問われると今でもこの記憶が真っ先に上がるのだ。

 少し気分もリフレッシュしたところで足を止めると、もう既に家の前だった。そんなに長い時間走っていたのか、と驚き半分、自分の家という優位なフィールドに帰って来れたこと に、安堵を覚えた。

「あれ、匡亮? 遅かったね、まだ着いてなかったんだ?」

 不意に道の左の方から声がして、思わず身体が反応する。少し落ち着いてから首を左に向けた。

「やだな、そんな驚かなくても良いじゃん?」

 もしここまで、彼女が三分間の死のうちに来ていたら、と思うとゾッとする。それゆえ、見知った顔とふんわりとした長い髪がそこにあったときは、心底ホッとした。思わず、何だ 万喜まきか、と言えるくらいに。何だとは何よ、と流石に少し不機嫌な顔をされたが、万喜がいつもと変わらなかったこと は、俺の心を安定させてくれた。

「それにしえも、本当に遅かったね。もう日が暮れちゃってるし……何かあったの?」

 万喜はいつも俺に世話を焼く。年少の頃から、同い年だけれども誕生日が早いから、とどこかお姉さん気質で、更に俺の母が他界してからというものそれはパワーアップして、いっ そ第二の母なんじゃなかろうかというほどのお節介である。実際、その気質によって助けられたことは幾度となくあるし、だからこそ、できるだけ負担にならぬように努めているつも りだ。ゆえに、ここでの答えも、忘れ物を取りに行って少し知り合いに捉まっただけだ、と自然であるように答えたはずだった。

「へぇ、誰とかな?」

 とはいえ、クラスも部も同じである万喜と俺、それぞれの交友関係はどう足掻いても似通う。ここで嘘を吐こうがいずれバレる。面倒を避けて、俺は正直に門倉に会ったことを伝え た。

「門倉さんと? ……そう、なんだ」

 万喜の顔がさっと曇った。門倉は万喜とも何かあったのだろうか? 脳裏をよぎる言葉。

『私は、貴方と一緒になら死んでも良いと思っているわ』

 そんなことを平気で言う人間というのは今まで目にかけたことがないから、一体どうしたらいいのかは皆目見当が付かない。

「――あのね、匡亮。門倉さんとは話さないほうがいいよ。あの人……なんかコワイよ」

 万喜は俯き加減で答えた。いつもよりハリの無い声で。何かあったのか尋ねようと思ったが、さっきまでのこともあるので口を閉ざしておくことにした。

「匡亮は、何もされてない? ――何かされたら、ちゃんとあたしに言ってね。あたしがちゃんと、匡亮のそばにいてあげるから、さ」

 それだけ言うと、万喜は振り向いて家の方へ戻っていった。言動の読まれやすい表情と、その結果、万喜に励まされる形になってしまったことを少し反省しつつ、俺も家に戻ること にした。

 それでも、万喜が傍にいてくれることは、何故だかとても安心できることのように感じた。





    ■     ■     ■





 翌日になったが、その日、クラスにおいては特に変わったことは無かった。門倉は昨日の出来事が無かったかのように、至極いつもどおりに文庫本をじっと読んでいて、俺に話しか けることは一切なかった。万喜のほうは休み時間になるたびに俺の近くに来て、そこで友人と、時々俺も会話に混ぜながら、ひたすら話していた。話題は勿論、学生にありがちな話題 で。門倉がどうこうという話も全く出なかった。ただ、昼休みの時間だけは門倉も万喜もどこかへ居なくなり、俺はどうしたのかと考えつつも、他の友人と漫然と昼食を摂っていた。

 そして、何も無いままに下校時刻となり、俺はとりあえず部活へ行こうかと万喜を誘おうとした。





    ◆     ◆     ◆





「待ってよ、匡亮! どこに行くの!」

 眼を開くと、そこは学校ではなかった。学校ではなかったけれど、学校を仕切る外壁がすぐ左手にあって、右には学校の最寄りバス停があった。更に丁度俺を追い越すようにバスが 通り、バス停に止まった。そのバスの行き先は――地域で最も発展した駅へ行くバスだった。

『十二階より上のビルから飛んだって――』

 そして思い出したのは、あのときの門倉の台詞だった。その駅の周辺ならば、十二階以上の建造物はいくつもあるだろう。まさか、そんな――。

「匡亮っ! 呼んだかと思ったらいきなり教室でてってさ、荷物も置いてどこ行くきだったの?」

 急に力強く引かれた右腕、その先には長い髪を乱した万喜の姿があった。息を荒げている様子からも察して、もしかして俺は万喜を引きずりながらも死に向かっていたのだろうか?

「さ、早く部活に行きましょう! 遅刻になっちゃうよ?」

 そして、その右腕を更に引き、万喜は俺を学校へと引き戻していった。俺はそれに感謝しながら従いつつ、チラリと後ろのバス乗り場を見た。そこには――最後尾に門倉が並んでい て、口元だけを愉快気に歪ませながら、ジッとこちらを見ていたのだ。





    ■     ■     ■





 もしも一昨日、昨日の出来事が偶然でないとするならば、一体どうしたらあんなことになるのだろう。門倉の話を聞いて以来、俺までどうかしてしまったらしい。少なくとも『三分 間だけ死』んでいるのだ。そんなことが現実にあり得るなんて――。

「匡亮、どうしたの? あんまりボーッとしてるとケガするよ?」

 不意に呼びかけられ、左手に持ったジャガイモが少し滑った。

「調理実習なんだから、班員においしいもの作らなきゃダメだよ? ちゃんと集中!」

 万喜は高く声を張り、そして満面の笑みで俺に伝えた。調理というものは、俺は専ら万喜に世話されっぱなしで、さして得意ではない。せめて野菜の皮むきくらいできるようになり なさいよ、との万喜のお達しで、こうして調理実習の場を借りて、班で使う野菜を切る作業を一任されてしまったのである。

 この作業は慣れない者にとっては中々労力を強いる作業ではあったが、俺はこれを落ち着いて行えていた。というのも、この時間の前に門倉が調子を崩し、保健室に行ったためであ る。他人の不幸を糧にするというのは良いことではないが、俺の場合そうも言えない事情もある。門倉が離れているのならば、その時間は少しばかり楽しんでもいいだろう、と思って いた。

 ジャガイモの皮の処理は、最後に毒を含む芽の処理で終わりである。これでやっと全ての作業が終わりであると考えると、授業の一つであるにも関わらず、やりきった心地よさが少 し見えてきていた。ただ、芽を包丁で処理するのは少々骨が折れる。先ではなく根のほうを使ってほじくり返すような感じで、少し手元が狂うと刃が目の前に飛び出してくるのが怖い ところだ。

「あまり顔の近くでやると危ないよ?」

 万喜の警告も聞こえてくるが、どうにもそれは聞けそうにない。顔から離しすぎても、緑色に変色した部分が残っていそうで不安になるのだ。

「しょうがないなぁ……危なっかしいからちょっと貸して?」

 少し溜め息を吐いてから、万喜が立ち上がった。





    ◆     ◆     ◆





「……目、覚めた?」

 ゆっくりと目蓋を開くと、そこには心配そうに見つめる万喜の顔があった。それを視認すると同時に、左腕に少し痛みが走る。

「あ、無理しないで! ちゃんとゆっくりしてね、左腕、ケガしてるんだから」

 まさか、という思いがあった。ゆっくり腕を持ち上げてみると、そこには左腕の中程に巻かれた包帯があった。

「出血も特に問題なかったみたいだし、無事で良かったよ。六時間目が終わるころになったら一緒に帰れ、って言われてるから」

 あ、でも、明日は朝早く来いって、とおどけた顔で万喜は付け足した。

 まさか、門倉が居なくてもなるなんて――不可思議な状況に何をどう考えたらいいのかわからなくなってきていた。そして、ついに外傷が付いてしまったことに、俺は恐怖した。日 が経つにつれて、負うケガの程度がどんどんひどくなり、最終的には――。体中が震えた。

「それじゃあ、あたし授業受けてくるから、しっかり寝といてね?」

 考えているうちに万喜はすっくと立ち上がり、足早にベッドから離れていった。右手の小指に巻いていた包帯が何なのか気になったが、問う暇も与えずに。

 万喜がドアを閉め、足音が小さくなってゆく。どうしたものだろうか。万喜には感謝してもし足りない。早くこの状況から脱出しなければ、ずっと万喜に迷惑をかけ続けることにな る。脱出するにはどうしたらいいのだろうか。自分でも訳のわからないこの状況から抜け出すための方法とは?



「明日、教えてあげるわ」

 不意に響いた声は、仕切られたカーテンの向こうからだった。声の主は、姿が見えなくてもわかっている。

「明日の放課後、教室で会いましょう。きっと全部、教えてあげる」

 彼女の言葉はそれだけで、彼女もまたドアを開け、保健室から去っていった。

 明日、全て分かるというのだろうか。本当に、全て――?





    ■     ■     ■





 朝早くから職員室でこっぴどく絞られた俺は、一時間目から早くも疲弊していた。教室を移動することがないのが唯一の救いだったが、それはつまり、一日中ずっと門倉の視界の中 にいるということであった。後ろゆえに何をしているのか分からないし、下手にぼんやりすると、また気付いたら保健室、というのではシャレにならないので、気を抜くこともできず 、一時間一時間がやけに長く感じられた。

 一方で、万喜の様子も少々異なっていた。どこかそわそわした感じで、授業中も休み時間もしょっちゅう時計を見ては俺を見ての繰り返しで、心配しすぎだと額を小突いてやったが 、それでもまるで小動物のようにきびきびと周囲を見回していた。



 しかし、そんな万喜の苦労も運良く報われず、放課後となった。次第にまばらになっていく教室の中に、門倉は本当に残っていた。

「ね、匡亮もそろそろ部活行こうよ。昨日も行ってないしさ」

 万喜がにこやかに俺に話を振るが、俺は依然ケガ人という扱いである。ちょっと休んでろ、と顧問に言われたと万喜に伝えると、少し不服そうな顔をして、本当に大丈夫か、寄り道 せずに帰ってねと本当に母のような念押しをしてから、教室を後にした。





「――さあ、人も居なくなったし、お話を始めましょうか」

 最後の一組が出て行くのを確認して、門倉は後ろの席に座ったまま話し始めた。

「あれから三日経ったけれど、どうかしら。具合は良い?」

 勿論、良くない。今日に至っては朝からずっと警戒していたのだから、余計に疲れている。ぶっきらぼうに答えるつもりだったが、途中で彼女は咳き込み始め、会話は中断された。

「――ごめんなさい、私もちょっと具合が悪くなって。気にしないで頂戴」

 そういわれれば、昨日も早退していたことを思い出した。単なる風邪なのだろうが。

「貴方のことだろうから、どうやったら千代反田さんに迷惑をかけずに済むかどうか考えているのでしょう?」

 少しこけた頬を片肘ついて隠そうとしているが、小さくか細い手はそれを覆いきることができていなかった。そんな少し衰弱したような状況も相まってか、俺は比較的素直に頷いた 。

「正直なのはいいことね。話が短くて済むもの」

 控えめに笑いながら、門倉は話を続ける。

「迷惑をかけない方法はね、たった一つだけあるの。たった一つだけ――」

 彼女はフフ、と声を漏らした。微妙に俯いたその表情が、俺にデジャヴを感じさせる。

「それはね――」

 それは、そうだ、その三日前に初めて眼を見た日の――

「――死んじゃえばいいのよ!」

 そう声を上げると同時に門倉は立ち上がった。俺も急いで立ち上がるが、少し慌てた所為か左腕を打ってしまい出遅れる。その間にも門倉が距離を詰めてくる。早くしなければ。右 足を動かそうとした瞬間だった。

「――!」

 視界がグラリと揺らぐ。視界の端で門倉の笑顔が、銀色と共に映った。冗談じゃない。こんなところで――。

「――ごめんなさい、貴方だけでも早く死んでもらわなきゃいけなかったの。……私も、早く追うから」



それが、最後に聞こえた言葉だった。





    ◇     ◇     ◇





 聞こえてくる声はなかった。

 眼の焦点がぼやけていて、中々合わせることができない。とりあえず、自分が横になっていて、天井しか見えていないことは判った。そして、取り付けられていた薄ぼんやりとした 灯りが頼りなく揺れている。蝋燭でもないくせに。

「……う、あ…………」

 徐々に焦点が合ってくると共に、呻き声が聞こえてきた。様子を見ようと思ったが、身体がいやに重たい。仕方なく、寝返りを打つ形で右隣を見てみることにした。けれど、それが 間違いだった。

「――アッ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ!」

 隣の寝台に横たわっていたのは、門倉だった。目を閉じているので起きていないのだろうが、うなされながら右腕を垂直に伸ばしていて――何かを掴もうとしているその腕が俺の方 を向く前に、早く動かなくてはならないのに、身体が言うことを利かない。起き上がることすらままならなくて、急いで左に転がることにして――寝台から落ちた。

 その瞬間、ドアの開く音が左から聞こえた。

「匡亮! 良かった、生きてるのね!」

 万喜だ、万喜の声だ。万喜が急いで駆けつけて、俺を力強く抱きしめた。

「もう、大丈夫だよ。助かったんだよ!」

 苦しいくらいに抱きしめてくる万喜に俺は、ありがとう、と感謝の意を伝え――ようとした。なのに、上手く口が回らない。声は出るのに、口が固まってしまったように動かない。

「無理しないで、匡亮はずっと、あたしがいてあげるから」

 それでも、どこか安堵感があった。あのときと同じ、「傍にいてあげる」と言われたときと同じ感覚が――いや、それ以上の、もはや形容できないものが俺を支配していた。

「大好きだよ、匡亮――」

 だから、万喜の右手にやけに長い鈍色が見えても、不思議と恐怖心は沸かなかった。





「だから……さ、一緒にいこう、ね? 匡亮――」







The end.















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閉じて戻ってください。



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