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 目を開けたら、目の前には暗く赤い天井が広がっていた。

 見覚えのないその景色に違和感を覚えて、起き上がって周囲を見渡しても、暗く赤い壁があるばかりで、その感覚は解消されることはなかった。

 其処は、私の知らない場所だった。















I'm BEATing on the Earth














 目を開いたら見知らぬ部屋だった、なんて物語の始まりとしたら安易だなぁ、とか思ったけれど、古典的ながら頬をつねってみる。が、残念ながら痛覚があった。

 けれど、どこか現実らしくないのだ。私の身には、鮮やかな赤色のノースリーブのワンピースが着せられていた。が、私はこのような服なんて持ってなかった。衣服もそうだけれど、さらにこの部屋の存在も、私にはどこか浮世離れした感覚しかもたらさなかった。広さは八畳程度であったが、上も下も、何処も彼処も暗い赤の色で覆われていたのだ。目立った物品は何一つない。上下左右、三六〇度を改めて見返してみても、それははっきりとした正体を見せない。私の心は、妙な恐怖感に覆われた。

 どうにかして、抜け出す手立てはないだろうか。私は立ち上がって思案してみる。足の裏は生暖かい感覚がして、気持ちの良いものではなかった。

 早く、此処を抜け出したい。

 そう思うと突然、右前方の壁には、扉が出来ていた。つい先刻まで、無かったはずなのに。奇妙な感覚しかなかったが、今の私にはこの唐突に出てきた扉しか、縋れるものはなかった。

私は観念して、扉に近付いた。扉の構造は、丸い取っ手が右中程に付いているだけの――どれもやっぱり赤い色をしていることを除けば――至ってシンプルなものだった。一呼吸置いて、私は取っ手を握り、その扉を押し開けた……心算だった。けれど、その取っ手は捻ることは出来ても、押して開くことはなかったのだ。押しても、引いても、襖のようにスライドさせようとしても、扉は頑としてその先の解放への道標を見せてくれようとはしなかった。



 五分くらい経ったろうか。時計すら無いから正確にはわからないけれど。私は扉との駆引きを一旦止めて、休憩を取っていた。扉は相変わらず、びくともしない。

 私は、ふうと溜息を吐いて、天井を見上げた。部屋は何処までも赤く、近いようで遠いような、他の色が見たくて堪らなくて、気が狂ってしまいそうな、そんな感覚しかしなかった。

 そんな考えを吹き飛ばそうと、首を振ってみる。でも、やっぱり気分は重いままだった。けれど、気がついたことがあった。右側の壁にもう一つ、扉があったのだ。後方の扉と同じ意匠の施されたもので、今まで其処に無かった筈のものであったのも、また同じだった。そうなると、この扉も開かないのだろうか。私は懐疑の念に囚われそうになりながらも、可能性を捨てることは出来なかった。

 近付いて、扉に手をかける。不安が心を覆う。この扉は開くのだろうか? けれど、試しもせずに諦めるのは愚であろうと、私はそのノブに祈りを籠めて、右手を捻った。

 がちゃ、ぎぃぃ。

 其れは、案外簡単に押し開くことが出来た。余りにもあっさりとしすぎていて、拍子抜けしてしまった。

 だけど、私はその先の景色に愕然とした。其処には、また同じような仄暗く赤い部屋が広がっていたからだ。

 しかし、唯一違う点……救いと成り得る物が、一つあった。最初から、右側に扉が存在したことだ。ただ、其れは同時にある可能性も示唆していた。もし、この扉の先に同じ様な部屋があって、それがもう二度続けば、私はこの薄気味悪い部屋たちの中を永遠に廻らされることとなるのだ。

 そんなことには、なりませんように。こうして願うときは、其れが聞き入れられることは往々にして無いのだけれど、意外にも、その思いは形を成していたのだ。細く、先の見えない、果ての無さそうな通路。本当ならば歓喜に沸くべきかもしれなかったけれど、そうはしなかった。否、出来なかった。何故なら、その通路は赤暗くて、まだ思惑の掌の上から抜け出せていない気がしたから。



♯      ♯      ♯



 その通路は思ったよりも長くなく、すぐに次の部屋に……いや、其処は部屋というよりも、広場という方が正しかった。幾つもの大樹が聳え、その根の張った大地には、蒼々とした草原が広がっていた。都市の郊外にある大規模な公園を髣髴とさせるような、そんな風景であった。一つだけ違うことは、空が全て赤いことくらいだ。とは言っても、今までの闇に近い赤とはまるで違う、もっと明るくて、鮮やかで、透き通ったような、赤。心成しか、今までの鎧を纏ったように重かった空気も、翼が生えたように軽くなっていて、最初の部屋と此処とが直接繋がっているようには到底思えなかった。ただ、今までいた所が暗すぎた所為か、私にとってその光景は眩しすぎた。目の眩みそうな感覚から逃げる為に、大樹の下へと歩を進めた。

 上を向かずにただただ歩いてゆくと、大樹の陰に足を踏み入れた瞬間、何かがこつんと頭に当たった気がした。何事かと頭を上げると、目の前には葡萄の実が生っていた。その実は普通のものからすると赤味が強く、少し大きめであった。目前の一房から粒を一つもぎ取って確りと見てみると、指の関節くらいの大きさだった。皮を剥くと、その中身は雫が滴るほど瑞々しく、口にすることを躊躇わせなかった。舌の上に乗せて転がし噛み締めると、程よい酸味が利いて引きしめられた甘さが口中に滲んだ。本当に美味しく感じられた。本当だったらもう一粒食したい思いに駆られるのだけど、意外にもすぐにお腹の膨れたような感覚で占められ、それは断念した。少し残念だったけれど、不思議と私の心の中は晴々としたものになった。

 満ち足りた気分で、大樹に寄り掛かってみた。木漏れ日が差し込み、程よい明るさ。あまりにも心地良すぎて、空に飛んでしまえそうな感覚さえした。ところが、其れは案外冗談というわけでもなかった。一陣の風が吹くと、其れに載るかのように、身体がふわりと浮かんだ。

「嘘っ?!」

 思わず、口に出して叫んでいた。風は全く強くない、寧ろ微風の部類に入るだろうに、私の身体はどんどんと大樹から離れていった。抵抗する術も隙も与えられぬまま、私は来た方角とは向かいの新たなる通路に吸い込まれるように、流されていった。



♯      ♯      ♯



 一体どれだけ、流されているのだろう。私はただただ通路の中を風に吹かれ、流されていた。その間に最初の部屋と同じ構造の部屋――扉の位置が右から左に反転し、且つ扉は開いていたけれど――の中を通っていったり、幾つもの太さの異なる分かれ道を通り抜けたりした。但し、その通路の選択に私の意思の関する余地は殆ど無かった。正確には有ったのかもしれないけれど、私の力不足――壁に手が届かなかったり、折角届いても引っかかる所が無く流されてしまったり――のために、引き返すことはおろか、道を変えることも儘ならなかった。けれど、私は諦めなかった。どうせ歩んでいくのならば、自分の足でないといけない気がしたから。風が無情に流してゆく中で、ただひたすら抗っていた。

 そして、通路の先にYの字の分かれ道を見つけた。私は必死にもがいて分離帯にぶつかる辺りまで身体を移した。風が右の道を選択し、通り過ぎようとした所で、私は手を分離帯に引っ掛けた。

「よいしょっ!」

 何とかよじ登り、別の通路に流れ込むことに成功した。その通路に風は吹いておらず、私は清々した、といった感じに溜息を吐いた。

 けれど、其処は今まで私が見てきた通路の中では、とても珍しいことが起きていた。

 人が、いるのだ。

 青いぶかぶかのTシャツを着た小さな女児の姿を、私は視認した。その子は、黙々と壁を叩き続けていた。その横顔はとても真剣なものであった。けれど、その顔には何だか見覚えがあるような……。

「……お姉ちゃん、だぁれ?」

 ふと呼ばれたことに気付くと、いつの間にか少女はこちらを向いていた。ただ、その右手は壁を叩くことを止めていなかったけれど。嗚呼、けれど、やっぱりこの顔には、見覚えがある。一体誰だったろうか。

「ねえ、お姉ちゃん? あなたは、だぁれ?」

 少女の二度目の呼びかけに、私はまた茫としていたことに気付かされた。

「あ、御免ね。えっと、お姉ちゃんはね……」

 ……あれ? 私は、誰だったろう?よく考えてみると、私が何者であったのか、一切の記憶がなかった。いや、そんな馬鹿な。ただ、少し度忘れしているだけだと思う。

「あはは、御免。お姉ちゃんってば、名前度忘れしちゃった」

 冷や汗を額に浮かべながら、張り付いたままの愛想笑いで私は彼女に答えた。名前を忘れることなんて、有るものなのだろうか?

 すると、少女は可笑しいことを言うのね、と笑いながら言った。

「そうなんだ。お姉ちゃんも、あたしとおんなじで、名前がないのね」

 にこやかに笑ったその顔には、すこし痛々しさが見えたような気がした。

 そう答えた後、少女は視線をまた壁に戻して、ただただ叩き続けていた。

「ねえ、どうして壁を叩いているの?」

 ふと、そんな言葉が口をついて出てきた。少女はまた先刻と同様の笑顔で私に言った。

「えっとね、お外のセカイにね、『あたしはココだよ』って気付いてもらうの」

 少女の表情は、変わらない。私はまだ、質問を続けた。

「お外に、出たいの?」

「うんっ」

「けど、こんなことして誰か気付くの?」

 そう聞いた途端、彼女の表情が曇った。その眼差しが、急に真剣になったような……気のせいかもしれないけれど。

「だいじょうぶだよ。ゼッタイ、あの子が気付いてくれるもの」

 顔はにこやかなままなのに、どうして彼女のその声は重く聞こえたのだろう。

「……あの子、って誰のこと?」

 それでも、私は聞かずにはいられなかった。何故なんだろう? 聞かなければならないような、そんな義務感に駆られていた。そんなこと聞いたって、きっと私自身には関係ないだろうに。

「あの子はね……」

 少女が答えようとした瞬間、私の耳には轟、と大きく風の音がした。しまった、と思う間もなく、私の身体はまた宙に舞って、真意も聞き出せぬままに再度流されていった。ふと後ろを見ると、青い服の少女は、最初の笑顔のままで、こちらをジッと見ているだけだった。



♯      ♯      ♯



 風に流されるがまま、気がつくと、通路は段々と狭くなっていた。私が流された直後は人が五人ぐらい歩ける幅だった。今では二人分、思い出せば、青い服の子の辺りでは三人分だった。どんどん壁が迫りくるのを感じていた。壁を使ってその場に留まることも、今なら容易だった。けれど、私はそうする気は全くなかった。通路の終わり……光溢れる出口が、私の視界に見えてきたから。



 抜け出した其処は、想像とは違う意外な景色が広がっていた。一言で例えるなら、そう、夕闇の摩天楼。赤い光に包まれた中、三六〇度見渡す限りにビルが建ち並び、その下ではライトを点けた様々な形状の自動車たちが、彼方此方に錯綜していった。まるで普通の街中のようだけれど、少し違う。其れはどこか無機質な感じしかなくて、私はただただ違和感を覚えた。しかし、風は気侭に流れ、私はある一つの高層ビルの一階へと流されていった。

 その中は、入口からずらりとガラスケースの並んだ、所謂、展示会を行う催事場のように見えた。ガラスケースの中には、色彩を異とした様々な「ヒカリ」が展示されていた。気が付くと風は止んでいて、私は自らの足で其処に立っていた。ぐるりと見渡すと、ふと一つの「ヒカリ」に目が留まった。その光は他のものより大きくて、淡く白いヒカリを放っていた。もっと近くで見てみたい。そう思って私はガラスケースに近づいていった。暫くぶりに使う自分の足は、あまり思い通りに動かなくてもどかしかったけれど、何とか目の前まで辿り着けた。視界はその淡い光で覆われて、目が眩んでしまいそうだった。そして、ガラスケースに手を触れてみる。すると、辺りは暗闇に包まれた。

 あまりに一瞬のことで、私はどうしようもなく吃驚するだけだったけれど、すぐに、目の前には映画館のシアターのようなものがセットされていた。じじじ、と私の頭上に在った映写機が音を立て、からからと廻りはじめた。すると、シアターにはセピア色をした映像が映し出されていた。その映像はカメラマンが走っているのか、やたらと上下に揺れ動いていて、見ているこちらとしては見難いことこの上なかった。酔ってしまいそうな心地を抑えて注意して見てみると、向こうには走ってゆく白いワンピースの少女の姿が見えた。その後姿は、誰かに似ているような気がした。私がジッと映像を見つめていると、突然画面は真っ暗になった。いや、よく見てみると地面だった。カメラマンが転んでしまったのだろうか。次第に、映像が滲み出す。どうしたのだろうか。

「大丈夫? ケガ、してない?」

 その問いと共に、画面がゆっくりと上を向く。其処には、先刻映っていた少女の姿があった。顔は、画面が滲んでいる所為か、よく見ることは出来なかった。

「もう、こんなことで泣かないの! 早くおばあちゃんの家に行くんでしょ??」

 画面が、上下に揺れる。肯定しているのだろうか。そう思うや否や、映像は一瞬、黒で塗りつぶされた。

「さ、早く行こ!」

 二・三秒くらい、間があったろうか。画面が再び光を取り戻すと、其処には手を差し出した少女の姿が、はっきりと見えた。その顔は……そうだ、あの、壁を叩いていた……。



♯      ♯      ♯



 気付くと、私はまた通路の中を流されていた。今度は風にではなく、私の周りを囲んでいたのは通路の半分程度を埋める水だった。私はその上に浮かんでいたのだった。その水を少し掬うと、やっぱり赤い色をしていた。壁面が赤いから、そう見えるだけなのかもしれないけど。

 ふと思い立って、私はこの流水の中へ潜ってみることにした。けれど、どうやらこの水の透明度は低いらしく、壁の左右からまた別の通路が合流していることはかろうじて見えたけれど、底の方はあまり見えなかった。そこで、私はもっと奥深くに潜水してみようと試みた。そのために、一旦息を吸おうと水面に出ることにした。けれど、一番上まで浮いてみると、其処にはただ壁があるだけだった。

 そんな、馬鹿な。

 先刻まで在ったはずの空間が、全くもって消え失せていたのだ。私は必死に壁を叩いた。こんなことは嘘だと信じたかった。けれど、幾ら叩いた所で壁に穴が空く訳でもなく、空間が出来るわけでもなかった。私は少し、十数秒前の自分を恨んだ。どうして潜ろうなどと考えたのだろう。……そうでなくてもどちらにしろ空気は消えていたのだから、そんなことは詮無きことであった。そして、段々と意識は遠く、視界がぼやけてきていた。

 嗚呼、どうしてこんな事に? そもそも、どうして私はここにいるのだろう? 私は今まで只の……只の、何だったんだろう? 何も、思い出せなかった。自分さえも何もわからないままで、私は深く、深く、堕ちていった。



♯      ♯      ♯



 次に目が開いたときは、また、赤い水の中だった。私は意識を自分のものにするや否や、急いで鼻と口を手で押さえた。

「バーカ、息吸えるっての」

 いきなり聞こえた声に、私はただ驚いた。声がした方向を見ると、其処には一人の青年が立っていた。だけれど。

「……!?」

 私は飛び起きて、その青年と一定の距離を置いた。何故ならば。

「ど、ど、どうして何も着てないんですか?!」

 彼は、見事なまでに全裸だったからだ。

「別にそんなに焦らなくてもいいじゃんか。別に何もしてねえし」

 その青年はけらけらと笑った。というか、目が覚めたら突然全裸の青年が近くにいたなんて、それで『何もしてない』なんて言われても説得力が無かった。

「兎に角、服を着てください、服を!」

「そんなこと言われたって、服なんて無いし」

 私は、唖然とする他に無かった。服が無いなんて、そんな。その瞬間、私は青年から目を背けることに決めた。

「助けて下さって有難う御座いました、では、私は行きます」

 半ば棒読みで、捨て台詞を残して。結構本気でこの場を立ち去る心算だった。

「あ、ちょっと待った! 伝えなきゃいけないことがある!」

 けれど、どういうわけか、私はその言葉に、止まらなきゃいけないような義務感を感じた。

「一体、何ですか?」

 背中を向けたまま、問いかけてみた。

「……一回しか言わないから、よく聞いとけよ」

 彼は少し照れたような口調で、もごもごと言った。姿を見ずとも伝わるくらい、解りやすかった。

「有難うな、姉貴」





 その言葉を聞くと同時に、後ろを振り返った。けれど、彼の姿はもう無かった。代わりに在ったのは、最初の部屋で見た、あの扉だった。

 そうだ、今ならはっきりとわかる。あの部屋も、広場も、青い服の彼女のことも、あの映像も、彼のことも、何故私が此処にいるのかも、全部。

 やっと、気付くことが出来た。やっと、思い出せた。全てはそう、この部屋の為だったんだ。

「……あはは、何だ。わかれば簡単だったんだね」

 そして、私は扉のノブに手をかけた。それを捻り、開けた瞬間、もう姿無き彼に向かって一言だけ、残した。



「御免ね、幸輝」



♭      ♭      ♭



 目を開けたら、目の前には明るく赤い天井が広がっていた。

 ゆらりと起き上がって窓を見遣ると、其処には今昇らんとする朝日があった。周囲を見渡しても何も無い、その個室の真ん中で、俺は耳を澄ませた。何も無い部屋だから、心臓の鼓動が、頚動脈の鼓動が、生々しいくらいに大きく響いていた。

 胸の中央を走る傷を指でなぞり、押さえる。そして、右手側に置いてあった写真を眺める。其処には、在りし日に行った祖母の家で撮った、幼い姉貴と俺の姿があった。



『1993年8月10日 おばあちゃんの家、きょう子・こうき』



 写真の裏に書かれた、幼い姉貴の下手な字を見つめて、俺は涙が出るのを抑えられなかった。



「有難う……御免、姉貴……」






-Fin















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閉じて戻ってください。



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