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 俺はそっと、あるはずない熱を疑って、額に手を当てた。疲労も極まれば、ココまでキてしまうものなのか。俺はただ、目の前の事実に、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。





 少し思い返してみよう。四月十一日。今朝の俺は非常に夢見が悪かった。もう思い出したくない、十二年前の記憶。だが残念なことに、学校は生徒たった一人の悪夢なんぞには振り回されない。だから、俺は頭を振ってそれを払い、不快感と少しの眠気を無理矢理抑えて、朝食の準備――母は幼い頃に死に、この時間にはもう父は出勤している――をした。といっても、冷凍食品をレンジで解凍するだけの話だが。その間に学生服に身を包み、着衣完了と同時に局地的に熱い朝食を口に運ぶ。そして、朝日の眩しい外へと飛び出した。

「お早う、桜さん」

 出てから間もなく、庭先で咲き誇る桜に、そう声をかけた。因みにこの桜、俺の幼少期に母が譲り受けたものを、我が家で挿し木を行ったら思った以上に成長し、今や立派な大樹となった、というもの。要するに、俺の思い出と共にあった桜だ。となれば当然愛着が湧く。だから俺は、この桜を丁寧に世話し、家族のように接し、時々話しかけていたりしているのだ。当然今日も、ちょっと桜に話しかけてから学校に行こうと考えながら、桜に触れた。



キュイィィン



 そしたら、だ。急に荷電粒子砲でも充填し始めたかのような音がしだした。しかも桜の中から。俺は咄嗟に五歩くらいずり下がった。いきなり植物から機械的な音が出るなんて、冷静に考えたらあっちゃならない事象である。けれど、冷静に考えるその前に、もっとありえない事態が目前で起こった。



キュウウゥゥ、ポンッ!



 変てこな音と共に、桜から球体が飛び出した。と同時に、それはあっさりと破裂し、その中にいた何かが、すっと地面に立った。

「おはようございます、春一さん♪」

 さもそこにいるのが当然のように、薄桃色のワンピースの少女はにこりと笑った。

 そして俺は、鞄を落とした。















cherish -Revision- WEB Edition













 で、今に至る。今朝の行動を思い返しても、特別なことはしていない。普通の行動だったはずだ。

「一応、初めまして。わたしはマーヤ、この桜の妖精です」

 ただただ呆然とする俺の様子を知ってか知らずか、その十歳前後の少女は満面の笑みで言ってのけた。ヨウセイ? 日焼けしたらまずそうな衣装を着て海の真ん中で歌ってるあの歌のことでしょうか、とでも訊いてやりたくなるような非常識的な単語がいきなり飛び出してくる。しかし、この少女、どう見ても普通の人間にしか見えない。羽だのリングだのも無いし、見た目は至って普通だ。

「春一さんに植えられて十数年、丁寧なお手入れのお陰で今年も花を咲かせることができました! これもひとえにあなたのおかげなのです!」

 キラキラと眼を輝かせながら、少女は続ける。

 と、ここで俺はひとつの仮説を思いついた。そう、不思議系キャラだ。俺が知る限りでは、某林檎型の星からやってきたというグラビアアイドルに端を発した、なんかよくわからない設定を付加されたキャラクターである。よく考えれば、成る程、球体云々は目の錯覚とすれば、大体の辻褄が合う。きっとそういうのに憧れてしまった子なのだろう。そして、春の陽気がこんなことを促してしまった、と。こんなのが蔓延するようなこの国に絶望しながらも、それならば、と俺は腰を据えた。

「それで、そのお礼と言っては難ですが、お願いを三つ叶えて差し上げようと……」

「……触らぬ神に祟り無し、君子危うきに近寄らず、きっと頭が春めいちゃってるだけっ!」

 俺は瞬時に踵を返し、一目散に走った。

「……って、あ! 待って下さい、春一さん!」

叫びが聞こえても、脇目も振らずに走る。願いが云々と喋っていたような気がするが、よく聞こえなかったし、多分そういう設定だと思って、さして考えないことにした。





 ある程度の所まで駆け抜けて、曲がり角で俺は一息ついた。この距離ならば、きっと追いつけない。小学生の体力では尚更だ。俺は呼吸を整えると、学校に向けて、歩き出すことにした。

「春一さ〜ん?」

 背後で先刻と同じ声がする。これから進む先には誰の姿も無い。ということは。俺は駆け抜けた道を、曲がり角からそっと覗き込んだ。

「新島春一さ〜ん?? どちらにいらっしゃいますか〜?」

 そこには、しっかりとさっきの彼女がいた。しかも五十センチほど上空を飛びながら。……最近のCG技術はよく出来ている。段々現実かどうかすら疑わしくなってきた。

「四年前に桜の根っこで転んだ春一さ〜ん? 二年前に木から落ちた春一さ〜ん??」

 しかも、何故か彼女は俺の恥ずかしい過去を叫びながら接近していた。何故知っているのだそんなコトを。そんな疑問はさて置いて、このままではあることないこと暴露されて、近所を歩けなくなるのは目に見えていた。止むを得ない、ということで、誰もいないことを確認してから、俺は曲がり角から全速力で飛び出し、少女の口を塞いですぐ向こうの横道に隠れた。傍から見ると少女誘拐にも見えなくないが、そんな悠長なことを言ってられそうにも無かった。

「……あっ、春一さん! やっと見つけました!」

 口から手を離すと、彼女は無邪気にそう言った。あんなことを次々吹聴して、何故こんな可愛げのある顔が出来るのか。ちょっとした恐怖を感じながら、俺はとりあえず疑問をぶつけることにした。

「なぁ、何故あんたは俺の名前を知っている? 且つ、何故そんなに俺の過去を知っている? ついでになんで宙を飛べる?」

 とりあえず、疑問を全部吐き出した。すると彼女はニコニコと親指を立てた。

「えっと、それはあなたの家の桜の妖精だからです☆」

 そして、あっさり一言で片付けた。あのですね、そんな不思議ちゃんな答えは求めてないのですが。

「あなたの家の庭に植えられてから十三年、マーヤはずっとあなたのこと、あなたの家のこと、見守ってましたから」

 優しげな笑みを湛え、彼女は言った。その笑顔に、俺はどういうわけか、何も言い返せなくなっていた。

「そ、そうですか。見守ってたわけですか。へー。」

 それこそ、視線を逸らしながら誤魔化すので手一杯だった。

「ええ、そうですよ♪ ああ、懐かしいです。あれは六年前、春一さんが手に何か持って急いで帰ってきたかと思うと、マーヤの根元に慌ててそれを隠して」

「プリーズストップ。止まりなさい。止まってくださいお願いします」

 ……一体なんの嫌がらせか。

 だが実は、現時点で自称桜の妖精は、俺をそう信じさせるに値することも知っていた。今述べた「六年前のアレ」に関しては、この事実を俺しか知らないはずなのだから。俺はふぅ、と溜息を吐きながら、途中で話を止められ膨れている彼女の頬を突付きながら言った。

「わかりました。あなたを桜の妖精さんと認めますから、その話は止めてください」

「えー、何でですか〜? せっかく、やっと色々とお話が出来るようになったですのに」

 彼女は少し不満そうな顔をした。その顔が少し可愛らしくて、少し笑みがこぼれそうになる。平たく言うと、油断していた。だから、気付けそうなことに、全く気付けなかった。

「そうだね、私もその話、ちょっと聞いてみたいな。六年前の何とかって話」

 今度は真正面からの声だった。と言っても、目前の妖精の声ではない。もっと別の、穏やかで透き通った声。

「……っ、宮沢さん?!」

 見上げると、そこには優しい香りがあった。セミロングの髪をかき上げ、彼女は教室で見る、いつもどおりの穏やかな表情で俺たちを見ていた。

「やだな、ビックリしすぎだよ?」

 彼女はふふ、と笑った。その彼女の様子とは裏腹に、俺は非常に焦っていた。……多分、聞かれたんだろうな。色々。

「ねぇ、ところで……この子はどちら様?」

 ふと質問され、ハッと気付いた。宮沢さんも、勿論マーヤとは初顔合わせである。マーヤの方も少し焦った表情が見える。

「まさか、新島くんの彼女?」

 冗談がきついですよ宮沢さん。幼児性愛への風当たりが厳しい昨今、こんな茨の道を行くようなことを誰がするんですか。

「いやいやいや、そんなわけ無いって!」

「またまた。大丈夫だよ、私は新島くんがロリータコンプレックスでも友達でいるからさ」

 貴女はそんなに俺が逮捕されてほしいんですか。

「そんなわけないって! この子は、あの、えっと、そう、従妹だよ、従妹!」

「あ、はい、そうなんです、従妹の新島マーヤといいます! よろしくです!」

 とりあえず、思いつく限りで一番無難と思しき答えを返すことにした。それに合わせてマーヤも、非常にぎこちないが挨拶をした。ここで「妖精です!」とか言わない辺り、この子は中々冴えているのだろうか。

「あ、初めまして、新島君のクラスメイトの宮沢菜々です。ふふ、可愛い従妹さんだね」

 ひとまず、山場はクリアしたようだった。宮沢さんはマーヤを気に入ったらしく、一頻り頭を撫でていた。そっか従妹かぁ、とか、そう言われればちょっと似てるね、などと繰り返しながら。まぁ、少し早口気味だったのは、きっと気のせいだろう。



「あ、それじゃあそろそろ行くね。じゃあまた、学校で」

 宮沢さんに手を振り送ると、俺は盛大に溜息をついた。一方のマーヤは、至ってケロリとした表情をしていたけれど。

「ああ、聞かれた。絶対聞かれた。まさか宮沢さんに聞かれるとは……」

 俺史上最大の不覚。結構本気で落ち込んだ。

「やはり、好きな人に聞かれては恥ずかしいですか?」

「当然だっての、ああもう激マズ……って、何で知ってんの?!」

 思わずノリツッコミ。ってか、本当にあなたは何でも知ってるんですね、チクショウ。しかし何でそんな俺の秘めたる思いを、この子は知っているんだろう。こればっかりは当然、桜の前で語ることだってしてないのに。

「へへ、マーヤは一年前、春一さんが部屋にこもって何をしていたか、窓から見てたのですよ」

 一年前? こうやって不意に過去の話を振られると、中々思い出せないものである。……単純に記憶力が衰えただけだろうか。トシはとりたくないものだ。部活の先輩に言ったら、高二の分際で、とか言われそうだが。

「春一さんはですね、菜々さんを想ってポエムを書いてたですよ。『あぁ、貴女はまさに一輪の』」

「やめてやめて、ストップザウォー、いじめカッコワルイ」

 確かに、一年越しで宮沢さんに片思いをしていることは事実であるが、そこまで口にする必要は無いんじゃないでしょうか。彼女は話したいと称して、実はおちょくって遊びたいんじゃないだろうか。多分、言ってはいけないことを考えずに言っているだけなのだろうが。



 キーンコーンカーンコーン

 不意に、遠くで聞き慣れた音がした。……始業五分前を示す予鈴だ、と気付くのに五秒かかった。そういえば、まだ朝であって、且つ登校の真っ最中であるはずだった。目前の少女のために、全く以って忘れていたけれど。ちなみに現在地から考えるに、学校までは走ってギリギリ。が、俺はとんでもなく重要なことに気が付いた。

「しまった、鞄持ってない……」

 顔面から血が引く音がありありと聞こえた。そう、思い返せば、庭先に鞄を落としてきたことを忘れていた。家に引き返せば、往復十分弱はロスする。その間にどう考えても本鈴は鳴るだろう。どうしたものか。

「あの〜……」

 ふと、マーヤが声を発した。そんなに不安な顔をしていたのだろうか、彼女の顔には、心配だとありありと書かれていた。

「マーヤ、三つ以内なら何でも、お願いを叶えて差し上げますよ?」

 ふと、耳が動いた気がした。そういえばそうだ。家を走り去る前に、そんなコトを口にしていたような気がした。

「本当に? 何でも良いのか?」

「はい! ヨーセーウソツキマセーン」

 胸を張って彼女は答えた。どこぞの原住民以上にとてつもなく胡散臭いにおいしかしないが、背に腹は変えられない。一か八か、『当たれば良いな』で買った宝くじのつもりで、俺はマーヤに言った。

「それじゃあさ、俺を今すぐ学校に着かせてくれないか? 勿論、忘れてきた鞄付きで」

 ……少し度が過ぎただろうか。とは言え、試せるものなら何処までも試してみたくなるのが人間の性(さが)というやつだ。

「わかりましたっ、お任せ下さい!」

 ところが、マーヤは満面の笑みだった。そして、瞬きをしたと同時に、ぴこんっ、とかヘンテコな音が聞こえた。











「あれ、新島くん?? いつの間に来てたの?」

 気付くと俺は教室の席に座っていた。隣の席で、宮沢さんは驚いた表情をしていた。俺が咄嗟に笑顔で誤魔化すそうとすると、不意にチャイムが鳴った。本鈴だ。同時に先生が教室に入ってきて、宮沢さんがこれ以上問いかけてくることはなかった。一方で、俺は少しビックリしていた。まさか、本当に願いが叶うとは。つまり、彼女が本物の妖精であることを、身をもって証明されたのだ。ただその興奮で、頭がいっぱいだった。









☆       ☆       ☆










「それじゃあ、気をつけて帰ってね。バイバイ」

「あ、じゃあまた明日」

 今日は、宮沢さんと途中まで下校することとなった。帰宅部組は俺たち二人だけなので、ごく稀にそんなコトがあるのだ。但し今日は、HRで最近発生した通り魔事件の話をしたところだから、寧ろ担任に送っていけと言われたからだが。大体そんなコトというのは、ニュースで報道されているから身近に感じられるだけで、実際そのような事件が起こる確率なんて相当低い、とどこかのテレビで言っていた。心配のしすぎだと思うのだが、役得だな、なんて思ったので快く引き受けた。宮沢さんと一緒に帰れるとなれば、俺のテンションは恐ろしく上がるのだが、今日は何か引っかかる点があって、そこまで上がらなかった。

 それというのも、マーヤが学校までついてくることがなかったからだ。確かに、彼女がここまで来ると多少面倒が起こるだろうから、正しい判断だと思った。けれど、下校の時間になり、家に向かおうとすると、実は夢だったのではないだろうか、という疑念が襲ってきた。冷静に考えたら、こんなことは絶対ありえないことだ。学校に早く着いてしまって、少し寝てしまったのではないだろうか。そうであると言われた方が、納得がゆく。と、一人思考していた。ふぅ、と溜息を吐いて、俺はこの角を曲がったら少し走ろうかな、などとぼんやり考えていた。



 ゴンッ



 そしたら、見事に誰かとぶつかった。

「いたたた……あ、春一さん!」

 ぶつかって座り込んだのは、朝の夢と思しきものに出てきた彼女だった。

「って、マーヤ?! なんで……」

 現実だった。先刻までの考えを吹き飛ばす、驚愕と安堵が俺の頭の中で渦を巻いた。

「学校の位置がよくわかんなくって、迷子になっちゃってました。春一さんの家のお庭から出るのは、初めてでしたし……」

 彼女は照れたように頬を掻いた。彼女が桜だというのなら、当然そこから動いたことはないのだから、ある意味当たり前だった。けど、それと同時に疑問も湧く。

「だとしたら、なんで位置もわからない学校に俺を飛ばすことが出来たんだ?」

「あ、それは、春一さんの想いの力を借りたからですよ。春一さんが行き先を想像していたから、その場所に送り込むことができたんです」

 ああ、なるほど。そう言われると確かに納得できた。俺はちょっと感心した。ふむふむ、と俺が唸っていると、マーヤは何かに気付いたように、口を大きく開けていた。

「そうです! 春一さん、なんか近くで男の人、見ませんでしたか?!」

「男の人??」

 いきなりの話の転回に、一瞬ついていけなくなりそうになる。

「はい。さっきですね、マーヤ、その人とぶつかっちゃって……謝ろうとしたら、何も言わずにスタスタ行っちゃったんです。けど、それじゃ悪いなぁ、って思って」

 マーヤは身振り手振りを大きく使って喋った。

「あー、うん。探してる理由はわかったけど、特徴が全然掴めないんだが」

「あ、えっとですね、春一さんと同じ位の背の高さで、サングラスに黒いコートを着てて、確かマスクもしてました!」

 説明だけ聞くと、ものすごく怪しい感じにしか聞こえなかったが、きっと花粉症か何かなのだろう。春というのはそういうのが多いから。

「いや、別に見てないけど……」

 俺はからかうつもりもないので、そのまま真実を述べてやったが、マーヤのほうは少し困った顔をしていた。

「じゃあ、マーヤはまだ探してみます!」

「駄目。良い子はそろそろおうちに帰る時間ですよ?」

 大体、授業から帰ってくる時間と言うのは、黄昏時であるから、このような見た目的に年端も行かない子供がうろうろしていては、今度こそホンモノに捕まらないとも言い切れない。それを何となく考えた俺は、冗談めかしながらも注意することを選んだ。すると、マーヤは少しむくれたような表情をした。いかにも、子供じゃないですもん、と言いたげな顔だった。

 でも、俺にはそのコロコロと変わる表情が面白かった。それこそ、本当に従妹とかいたら、こんな感じなのかもしれないな、なんて、今まで感じたことのないような温かい気持ちが、俺の中で広がっていた。たった半日の間に、彼女は俺の自覚していないような空洞を、すっぽりと埋めていた。ぽかぽかと叩いてくるマーヤと、それを笑い飛ばす俺。ひどく、心が和んだ。







 だけど、幸福なんて長く続きやしない。







「きゃあああああああああああ!」

 夕暮れを劈くような悲鳴が響いたのは、そのすぐ後だった。しかも、その声には少なからず聞き覚えがあった。気がついたとき、目の前を風が裂いた。

「春一さん、急いでください!」

 マーヤはもう既に走り――正確には、飛び――出していた。俺もただ、促されるままに走りだしていた。

 声がした方へ、マーヤの先導に従いながらひたすら走る。先刻、宮沢さんと別れた角を曲がり、長い直線を走り抜き、右に曲がる。

「っ……!!」

 その瞬間、先に曲がったマーヤが、口元を押さえた。その先には、うつ伏せに眠る宮沢さんの姿があった。左の胸元を押さえた手を、赤黒く、不気味に光らせながら。



 人というのは、こういうときには動けないものらしい。

 足が竦み、手が震え、思考は白く。目の前の状況が何を指し示すのかすら、全く飲み込めなかった。推理やミステリ系の作品なら、主人公達は真っ先に駆け寄り、何か施そうとしたり、犯人を推理したりするが、そんな冷静な対処、俺には不可能なんだと思い知った。



 フラッシュバックする。十二年前の悪夢が、突き刺さる。



 幼い日に、何も知らず、ただただ見守るしかなかった、眠る母。母が何と戦っているかも知らず、いつか帰ってくる日を夢見て、ただ見詰めていた。そんな愚かな自分。結局、何も変わっていない。何も出来ないでいた。





「菜々、さん……そんな……」

マーヤは打ちひしがれていた。マーヤもまた、同じ思いなのだろうか。それとも。不意に、マーヤと眼が合った。その眼は、綯い交ぜになった感情が、津波のように押し寄せていた。

 俺は、彼女に一体何が出来るだろう。俺が今、出来ること。それは。



「なぁ、マーヤ」

 重い唇を開くのに、十秒はかかったと思う。マーヤはただ。口を閉じたまま此方を見た。

「二つ目のお願いだ……宮沢さんを、助けてくれ」

 俺が出来ることは、ただ祈り、願うことだけだった。けれど、今の俺に、それを実現させる力があるならば。

 マーヤは暫く黙していた。何か言いたげに、口をもごもごとさせている。

「俺はもう、好きな人を失いたくない……」

 動かぬマーヤに、俺は懇願した。グラグラと揺れる感覚が、俺を支配した。

 少しして、マーヤは宮沢さんの許へ向かった。俺に眼を合わせることなく。ゆっくりと。座り込んで、何事か唱えると、二人は桜色の眩しい光に包まれた。その後は目を閉じてしまったから、何が起きたかは分からなかった。

 俺が目を開いたとき、その場には無傷で元通りの宮沢さんが、眼を閉じて横たわっていた。触れた温かさに安堵を覚えながら、宮沢さんを起こして、家まで送っていった。

 何故か其処に、マーヤの姿はなかった。











☆       ☆       ☆












 宮沢さんの家からの帰り道、俺は上機嫌であった。先刻に比べたら、という条件付きだが。マーヤの力によって一命を取り留めた宮沢さんは、そんなことなどなかったように、笑顔で俺に手を振った。宮沢さんが無事であったことは、俺にとっては喜ばしいことだった。けれど、結局のところ、俺は気付いてしまったのだ。己の非力さと、無能さに。結局俺は、幼かったあの日より、成長していなかったのだ。突きつけられた事実を、俺はただ認めざるを得なかった。

 気がつくと、もう家は間近だった。家はいつもと変わらず、いつもと変わらぬ俺を迎えた。ただ、一箇所を除いて。

「……嘘だろ?」



 庭先で俺を迎えたのは、茶色の手足をそのまま曝け出した桜だった。朝まで咲いていた筈の花はもとより、葉すら枯れ落ちた、見るも無残な姿で。

「あ、春一さん……遅かったですね。心配、してたんですよ……?」

 その足元で、彼女は笑っていた。その後ろの、見えるはずのない樹皮を透かせて。

「冗談、キツいってば。なんで、お前、体透かしてんだよ?」

 思わず、乾ききった笑いが出る。一切合財、冗句にしか見えなかった。これが夢ならば、どんなに楽だったろうか。こんな話が夢じゃないだなんて、世の中はどうかしている。

「やっぱり、人を甦らせる、というか、それに近いことって、かなり力使っちゃうみたいですね。三つ目のお願い、聞けなかったですね……ごめんなさい」

 マーヤの、精一杯の笑顔が、心に刺さった。



「どうして、だよ」

 気付くと、言葉が出ていた。

「どうしてなんだよ。俺、結構お前といるの楽しかったんだぞ? そりゃあ時間は短かったけどさ、ホントに笑って過ごせてたんだ。それなのに何だよ。俺はまた失わなきゃいけないのか? 何でだよ、何でなんだよ」

「……ごめんなさい」

 その場に跪く俺に、マーヤはただ、笑っていた。痛みがあるのか、引き攣りながら。

「謝んなよ。謝るんだったら三つ目の願いを聞いてくれよ」

 ただ、言葉が出てくる。気持ちが抑えきれずに。

「本当の、家族なってくれよ。なんならの従妹のままだって良い。家族になって、俺のすぐ近くにいてくれよ……」

 何故こんなことを口走っているのだろう。俺らしくもない。

 けど、これは俺の願いそのものであった。

 マーヤに近くにいてほしい。偽らざる願いだった。

「そのお願いは、聞けませんよ」

 それでも、マーヤは笑顔だった。口では残酷なことを言い、体は、肩で呼吸するほど苦しんでいるのに。

「どうして」

 叫び声は、掠れていた。気付くと、目の下から何かが押しあがってきていた。自分のことであるのに自分のことでないような、不思議な心地に支配されていた。

「だって、もうそれは、叶っているんですから」







 急に目前が暗転した。

 と思ったら、五メートルくらい先に、一人の少年がいた。きっと、五歳くらいの。その隣には、泣きじゃくる男性がいた。それが若き日の父だと気付くのに、数秒かかった。



「ねぇ、お父さん。 お母さん、どうしちゃったの? 寝ちゃったの?」

 少年は、無邪気な声で父に問う。父は、涙をただ拭っていた。

「ねぇ、どーして泣いてるの?」

 少年は、何も知らずに問いかけていた。

「……お母さんが、もう……動かないからだよ」

 彼が必死に声を絞り出したのは、数秒経ってからだった。それでも少年はなおも首を傾げていた。

「お母さん、動かないの? それじゃあ、お腹の赤ちゃんは?」

 少年がそう口にしたとき、俺の目前に、顔を白い布で覆われた女性が、白い布で包まれて横たわっていた。その腹部は、ひどく大きかった。

 父親が跪いたのは、それと同時だった。

「ねえねえ、真彩は? 真彩はどうなったの??」

「すまない、春一……」











 次に瞬きをした時、俺は元の世界に戻っていた。

「思い出して、くれましたか?」

 ああ、俺は何故、忘れてしまっていたのだろう。

 目の前にいた彼女は、既に亡き家族であることを。

「そんなに泣かないで下さい。真彩は、ずっと見守っていますから……」

 透けてしまって、殆ど風景と同化しつつあった彼女は、俺の目ではもうその行方を掴むことができなかった。

「それじゃあ、さよなら、お兄ちゃん」

 一陣の風が、散った花弁を根こそぎ運んでいった。庭の地面には、今まで桜が咲いていて、既に散ってしまったことすらも夢かのように、俺と、枯れた桜を残して、ただ土だけが残っていた。



 俺は、無力だった。

 必死にもがくことすらできず、ただ涙を流して、それを見送ってしまった。

 記憶から逃げて、大事なことを忘れて。そして今も、何も出来なかった。大事な人を取り戻すチャンスを、みすみす逃してしまったのだ。

 俺は拳を握り締め、ただ後悔した。ただ責めた。そして、ただ叫んだ。家族を二度失った、悲しみを。何もできなかった自分を悔いて。







『そんなこと、ありませんよ』

 声が、どこかで響いた気がした。

『あなたが想い、祈ったから、菜々さんは無事だったんです。あなたが想い、育てたから、この桜は花を咲かせたんです。そして、あなたに逢えたんです。あなたが想ってくれたから、いろんなことができたんです。忘れないで。あなたのその想いを、人を想うことを、大切にして――』

 握った掌を開け放つと、其処には一枚だけ、桜の花弁が在った。

 それは、手から離れると、先刻の風の後を追うように、舞っていった。











☆       ☆       ☆












 ピンポーン



 三月二十五日。高校二年として学校へ行く最後の日。インターホンのなった音を聞いて、俺は鞄を手に外へ飛び出した。

「春一、おはよう」

「おはよう、菜々!」

 玄関の前には、笑顔で出迎える菜々の姿があった。あの日から一ヶ月くらいして、俺と菜々は付き合うこととなった。それで、朝はこうして一緒に登校することとなったのだ。

「そうだ、見てくれよ! やっと蕾ついてきたんだよ!」

 俺は庭先の桜に駆け寄り、木を叩く。菜々はもっと頬を綻ばせて、拍手と祝福を送った。正直言うと、もしかしたら、この桜はもう咲かないのではないか、などと思いかけたこともあった。けれど、その度に彼女の言葉を思い出し、良い肥料を探してみたり、いつにも増してしっかりと世話をした。開花予想日が近付くに連れ、はらはらしながら枝先を見ていたが、他の桜と対して変わらぬ頃に、しっかりと沢山の蕾を付けてくれた。

「良かったね、本当に」

「さすが我が妹。兄ちゃんは嬉しいですよ」

「ふふ、もうホントにすっかりお兄ちゃんだね」

 菜々が笑うのに釣られて、俺も笑った。すごく暖かな気持ちで一杯になった。

「それじゃあ、そろそろ行こう?」

「そうだな」

「いってきます、真彩ちゃん」

「いってくるな、真彩!」



 cherish。それが俺と彼女の約束。そして俺は今日も――彼女の分まで、生きてゆく。











「いってらっしゃい、お兄ちゃん、お姉ちゃん」



-Fin















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閉じて戻ってください。



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