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 突き刺さるような痛みだった。高層ビルの屋上から剣山へ飛び込んだような、鋭い痛み。その時、私はきっと、酷く醜い表情をしていただろう。その歪んだ表情を、彼はどう受け止めただろうか。その視線に含まれた感情が侮蔑でも嘲笑でも、憐憫であろうとも、私は一向に構わなかった。今、彼がその目に視ているモノが私だけであるということ、私の存在が彼の脳裡に留まっただろうその事実。それだけで良かった。
















間違い探し














 そもそもの発端は、きっと、私が中学の時に「選んだ」ことから始まっていたのだと思う。

 最大の要因は、天賦の才や卓越した技術がなくてもそれなりに見える部活であること。やること自体も原始的であり、複雑な思考を要求されない点も、陸上競技を選択した理由になる。あくまで部活でしかないのだから、面倒な思索に捕らわれるのは厭だった。

 けれども、タイムキーパー他人の一瞬の躊躇に左右されるのは厭だった。かといって、長い時間の苦しみに身を投じるほど自虐的にもなれず、ほんの刹那の匙加減で明暗が分かれるものに挑む度胸もなかった。そんな私が、八〇〇メートルという実に半端な、けれども中庸を得たこの距離を選択したのは、とても当たり前なことであったと思う。

 その消極的な、それでいて積極的なこの選択が今に繋がっているのであれば――非常にチープな言い方をすれば、運命が私と彼を結びつけたことになるのだろう。実際、私が走り続けていなかったら、彼に巡り会うなんてことはなかったと思っている。




 彼を初めて見たのは、中学時代の県大会の時だった。中体連の役員であった顧問に雑用要員として連れてこさせられた会場で、である。前々日から続いていたすっきりしない曇天と打って変わって、梅雨の中休みとなった大会三日目。その日が真上で照る少し前。私は顧問に「参考になるだろうからよく観察しておきなさい」と言われ、雑用を一休みして、競技場のバックスタンド右、スタート付近の席に腰を下ろしていた。持っていたタオルで汗を拭い、ペットボトルのスポーツ飲料を空にする。腕時計を見ると、丁度、男子八〇〇メートルの決勝が行われる時間だった。第一コースから順に学校名と名前が、はっきりとした女性の声でアナウンスされる。一人分のアナウンスが終わるたびに、会場のあちこちから彼らと同校の部員たちからの声援が聞こえた。その様子を、私は空のペットボトルを手元でクルクルと回しながら眺めていた。その終わり、第八コースのスタートラインに彼はいた。

「第八コース、青葉大附属中三年、戸北滉一君」

 アナウンスが競技場に流れると、左の方から大所帯で知られる青大附の部員たちの歓声が一際大きく響き渡った。と、思う。正直に言うと、それらの声は私には届いていなかった。スマートに一礼し、スタートの準備をする彼に、私の全神経は注がれていた。聴覚も触覚も嗅覚も味覚も、全てをシャットダウンして、その分の全てを視覚に費やしていた。陸上競技特有のユニフォームから伸びる、身軽げな四肢。小麦色の滑らかな肌は、黄色のユニフォームによく映えていた。少し骨っぽい手。微風にそよぐ黒髪。彫りの深い眼。赤い唇。さして近くもない場所であるのに、毛穴まで見えんばかりだった。


 これが「一目惚れ」という感覚なのだと気づいたのは、彼が二〇〇メートル向こうへ行ってからだった。そのことに気づくと同時に私は急に吐き気がして、彼が二周目に入るのもそっちのけて、ペットボトルを投げ落として、タオルで口を押さえながらトイレへ駆け抜けた。





 その彼と「再会」するには、それから五年と十ヶ月を要した。しかし、私が努力して彼に会いに行った訳ではない。全くの偶然であった。惰性ながらも陸上を続けていた結果がこのように訪れるとは、私自身、思いもしていなかった。

「えー、経済二年Dクラの、戸北滉一といいます。ここじゃ大体、トキとかこーちゃんとか、そんな感じで呼ばれてるかな。で、やってるのは中学からずっと八〇〇とかの中距離。――ああ、そんな感じ。よろしく!」

 間違いなかった。輪郭はあのときよりシャープに、背も伸びて、体格はより逞しくなってはいたけれど、間違いなく彼だった。確信すると同時に、顔が紅潮する感覚と、少しのめまいがあった。




 八〇〇メートルを走っている最中というのは、案外暇である。使うのは専ら筋肉だけであり、頭はまるで使わないため、余計に暇であった。暇なときの頭は、いつもよりずっと奔放に、取り留めのない思索を繰り返す。今日の晩ご飯に始まり、昨日見たテレビのこと、好きな音楽、洋服のセールのこと、夕べ見た夢のこと――日記にすら記さぬような、軽薄な物事ばかりだ。けれども、それが今はただひたすらに彼のことばかりを考えているのだ。彼の好きな食べ物は、彼が昨日見たテレビは、彼の好きな音楽は、彼の私服は、彼は夕べどんな夢を見たか――正直に言えば、それ以上の妄想だってした。二分余りだなんて短さに耐えきれなくなるほどに、彼の様々なことについて考え、想像した。そして、その思索は走っている最中でなくとも、日常でも頭を駆け巡った。「恋は盲目」という言葉が、実際に自分に当てはまる日が来るなんて、予感も予想も、していなかった。日に日に彼の存在が私の思考の中で肥大していく。それはいつか氾濫するだろうと警鐘を鳴らしつつも、その状況下にいることが酷く苦痛で、幸福だった。



 
 その一方で、私と彼の関係は一歩たりとて進展しなかった。当然だ。私の想いは背徳であるし、そのうえ、いくらこちらが六年越しに想っていようが、彼にとっては十数人いる後輩のうちの一人でしかない。同じ八〇〇メートル走者ということで少しだけ話はしても、それだけでしかない。眺めているだけでも精一杯の私には彼を誘う勇気もなく、ただ黙するだけだった。それでもなお、彼への思いは募る一方だった。照れて言葉に詰まる私に急かさず待ちながら、足りない言葉でも解しようとする面倒見の良さ、爽やかな笑顔、通る声、適切なリーダーシップを備え、下級生に指示を送る。彼のことを知ってゆくと同時に、想いも深く刻まれていった。その分だけ、私は酷く思い悩まされた。寝ようとしても寝付けず、夜更かし気味になることがしょっちゅうだった。





 そんな中で迎えた、春学期の納会だった。再来週にある大会への景気付けも兼ねて行われたこの飲み会は、恐ろしい勢いでお酒を空けていくため、潰れてしまう人も少なくなかった。酒は決して弱くないはずの私でも頭がグラリとしたので、一旦、外の空気を吸おうと店の外に出ることにした。自動ドアが動いた瞬間、ムッと湿気た外気が私を包んで、不快な気分にさせる。近くにあった欄干に寄り掛かると、肩の辺りが少し冷える感じがあった。その冷気のおかげで頭が冷えたのか、自分の左手にある違和感に気づくことができた。

「――どうしてグラス持ってっちゃってるのかな?」

 不意に聞こえた気楽な声に驚きながら見上げると、そこには彼が、赤ら顔でそこに立っていた。

「ダメだって。グラスの店外への持ち出しは禁止されております、って言われるぞ? しかも空だし」

「――ああ、すいません。なんか、気づかなくって」

「おいおい、散々呼んでたってのに。相当酔っぱらってんな、こりゃ?」

 けたけたと笑う彼を見て、冷えたところが再び熱を帯びてきているのが分かった。と同時に、呼ばれているのに気付きもしなかった自分が少し恥ずかしく感じられた。

「そうかもしれないですけど、戸北先輩も酔ってますって」

「いや、トキでいいって言ってるじゃん――ってか、矢澤ほどじゃないし」

「何言ってるんですか、アレだけ飲んどいて」

 しかし、実際酔っていると思った。彼を目の前にしてさくさくと砕けて話せているのは、やはりアルコールの力ではないかと思う。いつもならば、こんな風にはいかないから。

「あー、それよりさ――一体どうなってるの?」

 彼の急な問いに私は疑問符を浮かべた。何の話か分かっていないのを感じ取ったのか、彼は少し私に近づいた。

「とぼけないとぼけない。さっきの恋バナのことに決まってるっしょ?」

 私は彼の少し強引な振る舞いにどきりとしながら、慌てて目を背けた。彼も酔っているのだ。いつもと異なる仕草があっても当然だ。Tシャツの胸元が少し開いていても、それは酒のせいであると言い切れる。それよりも問題は、ここに恋バナを持ってこられたことである。まさか、言えるはずがない。言ってしまえば、ここはたちまち火の海と化すだろう。火の元は当然私。もう、ここにいること自体が許されなくなる。それはすなわち、彼と離れることを意味していた。そんな事態は避けなくてはならない。けれども、もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない。ここで万が一のことが起きたなら、私は悲願を達することができるのだ。けれども、それはあくまで「万が一」でしかない。万に九千九百九十九、そんなことは起こらないのだから。そもそも、私と彼はさして近くない距離だった。とはいえ、三年あれば少しくらい埋められるかもしれない。もしかしたら、少しどころではないかもしれない。そんな好機を逃すわけにはいかない。逃したくない。逃せば「私」が崩壊することを知っている。逃したくない。離れたくない。けれども言葉は浮かばない。アルコールは思考を阻害し、ただ逸らせるばかりだ。

「恋バナのあたりは完全に黙っちゃってさ、そんなに言いづらいのか――あ、もしかして陸部の中にいるとか?」

 何も答えることができないくらいの解答だった。その的を射た解答に、私はもう眼を逸らしきれなくなっていた。

「そのとおり、ってとこか――そしたら、誰だか教えてもらわないとね。同じ八〇〇のよしみってことで、教えてもらえないかな? 絶対喋らないから!」

 そのときの彼の表情は何とも形容しがたかった。私が感じられるのは享楽と懇願と誠実と――それらと、私の解せなかった感情が混じって訳のわからない、けれども、とても彼らしい味のある表情であった。その表情を、それをお土産にできるくらいに力強く脳裡に焼き付けて、丁寧に仕舞う。私は、ついに決心を固めたのだ。



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 突き刺さるような痛みだった。高層ビルの屋上から剣山へ飛び込んだような、鋭い痛み。その時、私はきっと、酷く醜い表情をしていただろう。その歪んだ表情を、彼はどう受け止めただろうか。その視線に含まれた感情が侮蔑でも嘲笑でも、憐憫であろうとも、私は一向に構わなかった。今、彼がその目に視ているモノが私だけであるということ、私の存在が彼の脳裡に留まっただろうその事実。それだけで良かった。

 左手にあったグラスを思い切り地面に叩きつけた。当然ながら割れたその中から、最も大きい破片を右手で握りしめる。微風が吹き付けてきて、目元がやけに涼しく感じられた。彼の顔は――もう確かめられなかった。目は確かに彼の方を向いているのに、視覚はもう用をなしていなかった。感じられるのは、ただ響くばかりの右手の痛みと、ぬめる感覚だけ。

 そして、私はもう一度、彼の脳裡に私という存在を刻みつけるために、右手を首元に――



「私、矢澤望は、戸北滉一が好きでした」




△     △     △









The end.















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閉じて戻ってください。



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