誰かの呼ぶ声が聞こえた。何と言っているかは全く分からなかったが、その声が俺の眼を覚まさせたのは確かだった。 |
右にも左にも、上にも下にも何も存在の無い世界。あるとすれば、周囲が白で覆われていることがわかる程度の、弱く柔かい光。その空間の中で俺はふわりふわりと、足場の無い中空に一人横たわっていた。ここは、ただ俺のみしか存在していない世界だった。触覚を満たすものは無く、これといった匂いも無く、耳が掬える音も無い。あるのは、もはや上下左右の概念も失わせてしまいそうな、三六〇度あらゆる方向から注ぐ光だけ。 正体の知れぬ気持ち悪さに抜け出したくて仕方なかったけれど、ただただ浮いているだけの俺ができるのは、身を捩って周囲を確認することだけだった。それでも、何か見落としているものは無いだろうかと、視界の及ぶ限り端から端まで見渡した。 「おかしなことをしているのね」 いやにクリアな声が、耳に届いた。声のしたほうへ体を捻ると、黒いセミロングの髪をなびかせた赤い服の少女が、微笑を浮かべながらこちらを見上げていた。ついさっきまで、誰もいなかったはずなのに。訝りながらも少女に声をかけようと思った。 「あなたは、ここにいちゃいけないわ」 けれど、彼女は俺の言葉に先んじて、そう言った。 「いちゃいけない、って言うんだったら、俺は一体どこに行けばいいんだ」 いちゃいけない、それが義務かなにかの類だというのだろうか。だとしたら、目が覚めたばかりの俺としては非常に理不尽なことだ。……いや待て。どこか強い口調のその言葉に、俺はつい喧嘩腰になってしまった。大人気ないな、と少し考え直して、目を閉じて一度深呼吸をした。瞼の裏に、誰かがむくれた顔をしてこちらを睨んでいる画が、ふと浮かんだ。こんな顔を見たときはよく、こうして一旦息を落ち着けてから弁解することがよくあったことを思い出した。そう言えばあったな、そんなこと。俺は少し頬が緩んだのに気付いて、急いで表情を取り繕い、目を開けた。 「あたしが、つれてってあげる」 さっきの少女が、変わらぬ笑みを湛えたまま俺に左手を差し出した。気が付くと、彼女の周囲、いや、俺の周りにまで、深緑の草原が広がっていた。 「さぁ、ついてきて」 不意の出来事に呆然としている暇もなく、少女は俺の右手を取って、俺の答えが待っていられないと言わんばかりに、すぐに走り出した。俺は抵抗する理由も見つけられず、引っ張られたまま走ることに決めた。 ♯ ♯ ♯ それにしても、広い草原である。短くそろった青い草たち。それはどこまでも広がり、灰色の曇り空との境界まで、途切れる様子がない。そして、その中を貫く乾いた土の直線。その上を俺は彼女に導かれるままに駆け抜けていった。 彼女は、走っている最中にこちらを決して振り向かなかった。さらさらとした黒い髪を振り乱し、強く握った左手に汗を滲ませて、ただ前を向き走り続けていた。彼女の見ている、この果てしない緑の先には、何があるというのか。俺はそれを知ることができぬまま、ただただ走っていた。 それにしても、おかしな話であるのだが、俺はなぜかこの光景にデジャヴュを感じていた。こんな様な曇天の下で、後ろ髪を二つに結った、白いワンピースの少女の後ろを手を引かれ走った記憶。違うとすれば、両脇の草はもう少し背が高かっただろうことと、きっと、こんなに草原は広くなかっただろうこと。ああ、でもおかしいのだ。俺はその 不意に、体が浮いた心地がした。 目の前に俺の手を引く少女がいることは変わらない。頭上の曇天にも変わりはない。けれど、違いがあった。今まで存在していたはずの緑色に替わって、眼下に広がる一面の乾いた土色の存在。足元から十メートルはゆうにあるだろう、下に。そして、重力に逆らう術を何も持たぬ俺たちは、そのまま落ちて―― * * * 「大丈夫? ケガ、してない?」 声が聞こえる。ただ、俺にこの声の主が誰であるかは、皆目見当が付かない。 「もう、こんなことで泣かないの! 早く行かなきゃいけないんだから、ね?」 泣いている? 俺は、涙を流しているのか? 「さ、早く行こ!」 声は急かす。俺がいったい何であるかも示さぬままに。 「目を、覚ますの!」 * * * 「やっと、おきたのね」 眼を覚ますと、目の前でしゃがみ込んでいた少女は、俺の顔を覗き込んで何事か確認すると、表情を変えずに言った。先刻落ちたはずの俺には、なにひとつとして怪我もなく、痛みすらない。 「おきたなら、はやくいかなきゃ」 彼女はまた俺の右手を引いて、無理やり立ち上がらせる。俺に埃を掃わせる暇も与えずに走り出そうとするから、少し待ってくれと頼んだ。 デニムに付いた砂埃を左手で掃いながら、少しだけ後ろを見やった。そこには俺たちが落ちたのだろう崖と、ついさっきまで俺が寄りかかっていた葉のない枯れ木があった。枯れ木はなかなか太く、少なくとも俺よりは長い年月を生きてきたことを感じさせた。 「さぁ、はやく」 少女があまりにも急かすものだから、俺は少しやる気のない言葉を返した。その言葉を聞くや、彼女は容赦なく走り出した。 それにしても、彼女はどうしてこうも急ごうとするのだろう。急がなくてはいけない何かがあるのだろうか。時間内に辿り着かなければいけないのだろうか。そういえば、今は何時だろう。決して空腹になったわけでもないし、特に気にした意味はない。けれど、なんとなく気になって上空や左右を見渡してみると、左端で相変わらずの曇天と茶色の境界の隙間にすこしだけ、赤く染まった空が見えた。ああ、そろそろ夕刻なのだろうか。そう考えると、彼女が急ぐ理由もわかった気がした。きっと怒られるのだろうな、急がなくては。俺はその光景を想像して、苦笑した。少し気の強い彼女が怒られる姿は、どこか滑稽に思えた。 けど、今のは誰に怒られていたんだろう。 右腕が、急に引っ張られた。ハッと斜め後ろに目を向けると、少女が足を止めたということがわかった。なぜ止まったのだろうか、訳が分からずに尋ねようと思ったとき、彼女は右手で正面を指差した。 「何だ、これ……」 そこに広がっていたのは、見たことない光景だった。まず、すぐ手前には川が、左から右へゆっくりと流れていた。幅はおよそ三十メートルはあろうか、広大な石の河原を造り上げているところからも、その川の大きさが伺える。その向こう岸では、夕日の光と、それを反射する河水の光を受けて輝く花園があった。欧風を意識したのだろうそれはきれいな対称を描き、あらゆる色をそろえた花たちが競うように、かつ美しく咲き誇っていた。その奥には、ゴシック様式の城だ。水辺の向こうに聳え立つその様は、モン・サン=ミシェルを髣髴とさせる。壮大で、非常に豪奢な建築物。これほどまでのものを間近で見ることができることは、一生で有るのだろうか。 「これはね、“らくえん”なのよ」 背後から、少女の声が聞こえた。ふふ、と漏れた含み笑いから、彼女がどれほど嬉しそうな顔をしているか、想像がついた。けれど、何がどうしてそこまで嬉しいのかは、よくわからなかった。 「さぁ、往きましょう」 急に、彼女の声質が変わったのは、その瞬間だった。つい先刻までの見かけと同じ幼い声ではない、突然に、艶やかな女性の声に変わったのだ。 「一緒に、往きましょう」 彼女と繋いだままだった右手が震えた。寒さなど感じていないはずなのに、鳥肌が立った。心臓は鼓動を早めて、何かを告げる。何だというのか、この感覚は……? 「さぁ、早く」 膝まで笑い出して、そのまま崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。一体、なんだというのだろうか。美しい光景と少女に挟まれて、正体の知れない何かに……怯えている? 違う、もっと絶対的で、おぞましい何かで……。 「貴方は、わたしと一緒に往くの」 彼女の声に、一瞬だけノイズが混じった気がした。彼女の表情を確認しようにも、身体の全体が強張って、言うことを聞かない。左胸が、縛り上げられたように軋む。何の所為だ――? 『いっちゃ、だめ』 ついに脳すら 「どうして、泣いているの? 折角、楽園へ往けるというのに」 眼からは、涙が溢れ出してきていた。俺の意思とは関係なく、滂沱たる滝となって視界を塞ぐ。 『行っちゃ、ダメ』 先刻から頭に響くこの声は何なのだろう。おかげで、目の前に見えていたはずの“楽園”は姿を歪ませて、どうしようもない廃墟にすら、見せかける。 「早く、イきましょう?」 『往っちゃ、ダメ』 ああ、もう助けてくれ。もう止めてくれ。俺はどうなってしまったと言うのだろう? 俺は、どの声を聞けばいいんだ? 『逝っちゃ駄目だって、幸輝!』 遠くなりかけた 眼を開くと、そこはまた、最初の白い世界だった。そして、俺はまた同じようにたゆたっていた。 「どうしても、いっしょにいかないの?」 手の届かないくらいずっと遠くで、少女が俺に問いかけた。 「ああ。……一緒に行けなくて、ごめん」 「気にしないで。こういう風になっちゃったんだから、仕方ないよ」 少女は、時々その姿を見覚えあるあの姿にしたり、元に戻ったり、壊れたテレビのように砂嵐を混ぜたりしながら、けれどとても穏やかな声で言った。 「俺さ、代わりに沢山生きていくから」 「ふふっ、そう。だったら、あたしもがんばらないとね」 少女は満面の笑みを見せた。心なしか声が震えていた気がしたのは――気のせいだろうか。 「……がんばれよ、姉貴」 最後に、俺は左胸をトンと叩いた。 ♭ ♭ ♭ 眼が覚めると、そこは暗闇の世界だった。 いいや、違った。窓から差し込む満月の光が、俺と、俺を置くベッドを四角く照らしていた。 物音もない静かな部屋で、心臓の鼓動が大きく響き続けていた。 人の心というものが、脳に宿っているのか、それとも心臓に宿っているのか、と問われたことがある。昔は質問の意味がまるで分からなかったけれど、今なら言える。何故なら、俺は俺で在り続けているし、それに、俺にはいつも、声が聞こえているから。 -The end-
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