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 何も、無かったんだ。

 私が逃げ込んだ先には、何も無かった。

 そう、其処に有った。

 私はその時には、望んではいなかったけれど。















ちょっと不思議な夢、見たの。













 逃げたい、と思った。

 私が旅立つ理由はただ、それだけ。別に、何があったわけでも無い。家庭でも、バイト先でも、ネット上でも、恋愛関係でも、問題なんて特に無い。学校に至っては、夏期休業の真っ只中なのだから起こりようも無い。全てが当たり前で、知れていることで、変化も無い。そんな「退屈」から逃げたかったのだ。……それに、強く、誘われるのだ。空が、地表が、大気が、夜の闇が、私の暗く曇った心に「旅立て」と声を揃えて誘いかけるのだ。まるで松尾芭蕉みたいな物言いだけれども、本当にそんな心地がしていた。

 そして、私は誘われるがまま準備をしていた。時計が二十時を回った頃、いつも持ち歩いている黒の鞄に、パンとコーヒーと貴重品を詰めながら、最初の目的地を定めていた。旅立ちと言えば、どこかのファンタジー系の漫画じゃないけど、夜も明けぬ早朝に故郷を発って、朝焼けに浮かぶ街を丘から見届ける、といったようなものが基本に思える。安直だけど、やっぱりこんなお約束な始まり方をしたって良いよね、と思って、まずは自宅の近くの丘を目指すことにした。

 …………なんて、関東平野のど真ん中にそんなものはない。その代用として、付近で最大の河川、荒川の東側の土手へ向かおうと、心に決めた。





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 案外、あっさりと目は覚めた。一応、四時半に携帯のアラームをセットしておいたのだが、必要がなくなってしまった。需要を失ったアラームを消すついでに時計を見遣ると、針は四時十七分を指していた。時間は少し余っている。だが、慣れぬ時間に目が覚めた所為で身体は然程思い通りには動かない。図らずも出来た余裕を使い、私は少し瞑想した。…………と言えば聞こえは良いが、要するにボーっとしていただけである。そして、部屋の真っ白で真っ黒な天井をただただ見上げていた。考えることは何も無い。いや、土手に上った後は如何しようか、と考えていた。とりあえず、自転車で行けるだけ、ひたすら西へ……川越、秩父を越えて、山梨、長野……ホントに芭蕉を気取って大垣まで行ってしまおうか。それなら、東北も巡っていこうか……。想像はどこまでも広がって、果てなど無かった。想像の殻の中は優しく、暖かかくて、それを簡単に容認してしまうから。

 少し寝返りを打つと、左の壁と窓が目に入った。窓の外は少し明るくなって、もうすぐ天照が顔を見せることを知らせていた。けど、もう一度私は寝返りして、そっぽを向いた。

 だが、私はここでふと気付いてしまった。いや、やっと気が付いた、と言うべきだろうか。

「…………嘘、でしょ?」

 思わず独り言が飛び出すくらいに、私は驚いた。焦りながら携帯を手に取ると、其処には「8/23 04:47」と書かれた数字。どうやら私は、丸々三十分も妄想の海に漕ぎ出していたらしい。私は慌てながら着替え、荷物を取り、しかし家族に気付かれぬようにこっそりと、家を出た。私の使い慣れた銀色の自転車に跨って。





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 八月だというのに、外はやけに清涼感があった。自転車に乗っていること、日が完全に昇っていないことを差し引いても、体感温度はまるで秋のようだった。

 けど、それとは相対して、私の身体はかなり熱かった。今日の日の出時刻は五時六分。出発時間は四時五十分前後。土手までは大体十五分程度。要するに、日程がギリギリになってしまっていたのだ。別に「お約束」に拘っているわけじゃない。ただ、コレを最初から破ってしまったら、私は旅立たない方が良いような気がした。だから、こんなに焦ってみているのだ。

 人通りは、やたらと少なかった。時々、トラックが私を追い越していったり、近所のご老人が飼い犬の散歩に興じていたりするのを見かけるだけ。こんな時間では当然のことである。

「こんな時間に外出して何処かに向かうだなんて、相当の物好きがすることよねぇー!」

 私は周囲に誰もいないことを確認しつつ、自転車を漕ぎながら叫んでやった。特に意味は無い。無かった筈だった。けど、ふと今自分がやっていることを振り返ると、どうしようもなく虚しい気分がした。





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 ただ、我武者羅に漕いでいた。日の出の時間に間に合うようにと、ひたすらに。だから、私は気付いていなかった。

「……あれ、此処ってあの道に繋がってなかったっけ?」

 自分が、道を間違えていることに。

 道を引き返しながら、私は自分自身に少しガックリしていた。いつも自宅から学校、時々大宮駅周辺をウロウロするだけの毎日だった所為か、こんな近所の道もうろ覚え状態だったのだ。そんな、この周辺のこともわかっていないで、何が大垣か。何が東北か。

「……そんなこと、言っていられないじゃない。もっと周りのことわかってなくて……」

 想像の殻の中は、優しくて暖かいわけじゃない。易しくて手ぬるかったのだ。そして、現実の前には弱くて脆い壁だったのだ。少なくとも、私の「想像」とやらは。





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 坂を登りきり、ようやく土手まで辿り着いた。腕時計を見やると、長針はまだ一を指す手前であった。もう殆ど目的は消えかかっていた。それでも、戻る理由もあまりない。私は今まで来た道を背に、土手の上に伸びる道に沿って、南へゆっくりと漕ぎ出した。

「……あーあ。本当だったら、雲ひとつない空の下、真っ赤に染まる東の空、朝焼けに燃える街を見て、『ここから私の旅は始まった』とかなんとかカッコ良さ気な台詞言って、景色独り占めしながら朝ごはん食べるつもりだったのに……」

 希望していたものは何も無かった。空は雲で蓋をされ、見晴らしはあまり良くない。その上、道中であった出来事の所為で、カッコ良さ気な台詞を言うほど気持ちも盛り上がらない。寧ろ盛り下がっていた。唯一希望が通ったといえそうなのは、東の空くらいだろう。新都心の数本の高層ビルの向こうに少しだけ、左から右へラインを引いたように雲が途切れ、其処から紅くなった空が見えていた。しかし、それもとても狭いものである。ふと思い立って、私はおもむろに鞄の中に入れっぱなしであった定規を取り出して、見える空の幅を測ってみた。

「んーと……大体2cm……いや、1.9cmかな?」

 高々、そんなモノだった。ほんの隙間みたいな空。たったのそれだけ。希望は叶えられなかったも同義であった。

その筈だけれど、私はどこか、気に掛かる所があった。たったコレだけの広さしかないというのに、思った以上に街は明るく、ぼんやりと照らされているように見えた。街だけじゃなくて、飛んでゆく雀も、土手に生える雑草も、佇む私自身も、隙間からしか見えないような太陽に、照らされていた。何より、出発する時点で焦らされるほど明るくなっていたのだ。日の出よりも前だというのに。

「これだけしかないのに……こんなに明るくなるんだ……」

知らなかった。いや、知っていた筈なのに、気付かなかった。太陽は、力強く偉大だった。けれど、それは当たり前すぎて、気付かれなかった。「当然」や「既知」の陰に、素晴らしいものは転がっているのだ。

私の暗く曇った空に、微かだけど、光が射した。そんな気がした。



ペットボトルに入ったコーヒーを口に含んで飲み込むと、私はそのまま、自転車で駆け出していった。土手を下り、1.9cm……いや、今はもう3cmくらいに拡がった、光の溢れる東の空に向かって。

目指すは、私の家。もう一度、やり直すために。「当然」の陰に隠れて、見失ったものをみつけに。





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  最後に、下手の長談義に付き合ってくれて、有難う。

こんなくだらないことを聞いてくれるの、君くらいしかいないから……ね。

……え? 意外だった? 私だって、こんなコト話したくなるときくらいあるの。それだけ印象に残ってたの。

……ふふっ、そうね。つまらなかったでしょう? まぁ、「普通の人」の物語なんてこんなものなのよ。有名な小説や漫画で起こるようなことなんて起こらないし、起こさないの。だからこそ「普通の人」なのでしょうけど。

何言ってるの? 私は「普通の人」よ。名も無き市民その一。コレは一市民の小さなお話。それで充分、でしょ?





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私のいた場所に、有ったんだ。

望んでいたものは、すぐ其処に。

-Fin















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閉じて戻ってください。



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