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「あらまあ、何があったかと思ったら……」

 不意を突いて、音の少なかった部屋に声がした。その声は俺の左後方、部屋の入口から。

「こんにちは、理々くん」

 黒を基調に、臙脂色を中心に彩られたチャドルで肌を隠し、黒い布で顔を覆い、その隙間からは地の黒い肌と、にこやかな笑みを浮かべた黒く大きな眼が見える。

「……シャムスさん、どうしてここに」

 彼女の名はシャムス・シャヒ。イランのエスファハーンから来た留学生だ。青葉大は大学としては珍しく、学科内をいくつかのクラスに機械的に分けており、俺と彼女はクラスメートである。「シャムス」とはアラビア語で太陽を意味するらしいが、彼女は名を体で現すかのような積極性を持ち、俺も何度か喋ったこともあったが……まぁ、関係としては級友以上でも以下でも無い。

 とは言えども、一定以上の顔見知りであることには間違いは無いし、この状況を見られてしまったことは、非常に宜しくないことである。何せ、主のいない研究室で小学生程度の少女と共にいるという、何とも不可解な状況だ。説明を求められれば厄介なことこの上ない。さあ、この局面をどうやって切り抜ければ良いだろう。

「どうして、って、今まで先生方と喋ってて、ついさっき出てきたところで――あ、それよりイシュタル、あんまり白昼堂々と術を使わないの」

「人がおらぬ頃合いは見計らった。その上、その名は呼称ではないと言うておろうに。幾ら姉上であろうとも戴けぬ」

 相変わらず変なところに細かいのね、とシャムスさんは頭を掻いた。だが、俺はそこで妙な表現を聞いたような気がした。聞き間違いでなければ、エステルは今“姉上”と言ったはずだ。ただでさえ解らないことだらけだのに、これ以上何かあるというのか。

「――あ、ごめんなさいね、理々くん。妹が、迷惑をかけたでしょう」

 ああ、マズい。ついていけそうにない。パッと見の時点で肌の色から何から違うくせに、姉妹だ、なんて。流石に信用ならない。

「顔に出てるよ、理々くん。……まぁ、分からないのは当然よね。今から教えたげる」

 シャムスさんは穏和な口調だった。エステルは嘆息した後に、まあ良かろう、と頷いた。

「とりあえず、一旦はツッコミ無しでお願いね。話が進まなくなっちゃうからさ。あ、後で質問タイムは取るよ、うん」

 やはり事情を知る者が語る方が、冷静に考えることができる。知らない者が一方的に問うよりもずっと効率的だ。

「よし、じゃあ……まずは私たちのコト、かな。ここがよく解らないままだと、ここから先の話もワケわかんなくなっちゃうからね」

 自分を説得するかのように頷くシャムスさんと対照的に、エステルは右手を腰に、左手で口を覆い大きく欠伸をした。でも、今エステルがどうであろうとも関係はない。俺は話に置いていかれぬ為に、シャムスさんの言葉に意識を集中した。

「私たちはね――平たく言うと“神様”って呼ばれる存在なの」

 それでも、全速力で置いていかれた。慌ててエステルを見遣ったが、物憂げにこちらを眺めているだけだった。訂正をする気は、まるで無いらしい。

「――まあ、驚くよね。でも、この大前提がないと話が進まないからさ」

 それはそうだ。まさか神を自称するなんて、誰が予想できただろうか。現実離れしすぎている。そんな想像上で創造された存在でしかないものを誰が信じるというのか。

「科学万能主義で育ったお前には、さぞ残念・・だろうけど、これは本気の話なんだからな!」

 エステルの肩からクマが飛び降りて、机の上でえらく皮肉りながら言った。俺の価値観がそれを土台に成り立っているのは事実だが、そんなことがどうした。

「いいか、お前らの理論では“あったこと”が証明できないから、って神の存在エステル様たちを認めてないみたいだけどな、“なかったこと”だって証明できないだろうがっ! それなら寧ろ、シュリーマンのトロイだとか、動くぬいぐるみボクさまのこの体だって、十分立派な“あったこと”の証明だろ!」

 セルマの気迫は、凄まじいものだった。まさかこんなパンキッシュなテディベアに諭される日が来るだなんて。もしこの直後のエステルの日傘による打撃を回避できていれば、どれほど恰好がついただろうか。

「連れが五月蝿くてすまぬ、姉上。――それと理々、承服しがたい話なのは分かる。信ずるも信ぜぬもお主次第じゃ。好きにせい」

 エステルは言い終わると同時に、大きく息を吐いた。それが失望から来ていたのか、単に一息ついただけなのか、俺には判らなかった。

「ただ、セルマにとっては“ギルバートに因ってこの体ぬいぐるみにされた”という事実がある。それくらいは……信じてやってくれ」

 エステルにしては、珍しく力のない声であった。得体の知れない締め付けられる心地に、俺は手を握り締めた。

「――さ、姉上。続きを」

「……あ、そうね。うーんと、どの辺りから話そうかな……」

 シャムスさんの表情は相変わらずであったが、口調は少し慌てたようであった。まあ、唐突に盗られた主導権がこれまた唐突に返ってきたのだから無理もない。

「とりあえず――私たち姉妹の関係について、かな。私とエステルは、実際に血の繋がりはないの。見てのとおり、肌の色からもう違うし顔も似てないし」

 その上、イランとスウェーデン……世界史上でも、両国に交流があるのは現代くらいではないだろうか。

「それでも、私たちが姉妹と言えるのは、私たち神々が転生することでその魂を引き継ぎ、紡いでいるからなの」

 百歩譲って、の話だが、もし神話が実在したとしても、その成立はモノによっては半万年もの昔まで遡る代物まである。そもそも、輪廻転生なんてものも非科学的なことこの上ないワケなのだが――ふとエステルを見やると、どこか寂しげな眼をしていた。もう会ってから丸一日が経とうというのに、初めて見た紅の陰り。それは、彼女にはあまりにも似つかわしくない表情。何故だろう、その可憐なつくりの顔に、眼が動かない。

「で、いいかなー。話聞いてるかなー。私たちの真名について話すんだけどなー。聞いてないと切り捨てちゃうぞー」

 俺がエステルに気を取られているのに気付いてか、シャムスさんが少し声を大きくした。相変わらずの笑顔のままだが、彼女はその顔のままでサラっと毒を吐いたりするコトがあるらしく、周囲の女子達の空気が幾度か凍ったことがあった、と聞いたのを思い出した。

「それでは、改めて自己紹介といきましょう。私の真名はシャマシュ、太陽と審判をつかさどる、メソポタミアの一柱よ。はい、貴女も」

「――妾は、イシュタル。掌るのは金星、戦……まあ、そんなところじゃ。そして、妾達は月神シンの娘、姉妹でもある」

 名前を聞いてもさしてピンと来ないくらい神話に疎い俺でも、一人だけ聞いた名がある。シャマシュ――罪刑法定主義に基づく、かの有名な法典を古代バビロニアのハムラビ王に授けたという神。法学は俺の範疇でないので、その詳しい功罪はまるで知らないが、名だけでもその存在が知られているというのは相当だ。が、シャムスさんを改めて見ると、どういう訳かエステルの方を見ていて、例えるなら悪戯を思い付いた子供のような、今までとは違う顔をしていた。

「……まあ、いいや。で、神と言えば祟りみたいなことがセットで伝えられるケースがよくあるんだけど、それもそのはず、私たちは神通力を使って、魔法のようなコトをできるわけなのよ。そこの石像のような一般的に言う祟りみたいなこともできれば、ほら、日本だと神社とかで祀ったりもするじゃない、そうしてくれた人たちにはいろいろと恵みを与えたりするの。例えば――こんな感じに」

 言いながらシャムスさんは指で小さく円を描いたかと思うと、手元に小さな球状のものを産み出し、それを俺に軽い球速で投げた。手に少しべた付いた感覚が残る。匂いはやたらに甘ったるい――飴玉だ。

「と、まあそんな感じ。但し、これは理々くんが私の話を“信じてくれた”からできたことなの。神様は信じてもらえないと力を発揮できないのよ。これはちょっと覚えておいて欲しいところかな。ホントに最近は無神論者なんて気取っちゃってるのが一杯いて」

「姉上、話の筋から外れておる。もうよかろう」

「あ、ごめんごめん」

 エステルの容赦ないツッコミに、シャムスさんは頭を掻きつつ平謝りした。彼女はマシンガントークの使い手らしく、時々話が止まらないことがあるので、エステルには少し感謝した。ただ、エステル自身は依然として憂鬱げな表情だったが。

「えーと、大体こんな感じかな。じゃあ、そろそろ質問タイムにしましょう。何かあるかな」

 シャムスさんは清々しい表情のまま俺に尋ねた。彼女の笑顔には、本当にアクがない。飄々としたものでも、小ばかにしたようなものでもなく、太陽を掌るというのも受け入れられるくらいに、透き通った表情だ。エステルのそれはどうにも高慢なイメージが着いて、素直にいいものとして受け止められない。兄弟姉妹というのは果たして、これほどまでに似てなかったものだろうか。

 俺は少し考えた後、ある答えの示されてない事象を問うことにした。

「――円教授は、今どこに」

 問うや否や、シャムスさんはちょっと困った顔をして、エステルの方へ向き直った。

「それについては――うん、本人のエステルが答えてちょうだい、ね」

 声だけでもすぐ分かるほどの甘い口ぶりで、姉は幼い妹に回答権を寄越した。妹の精神年齢さえ合っていれば、とても微笑ましい光景だったろう。

「何れ言う心算ではあるがの――今、答える暇はない」

 あんまりにも素っ気ない返答に唖然としかけた。それでも、エステルは言葉を続けた。

「どうやら、そろそろ招いていた客人が来るようじゃからの」

 そう言って不敵に笑うと、エステルは窓へと向き直した。外は青い空、白い雲、そろそろ終着点の見えてきた太陽、変わらぬ光景。ただ一つ、こちらに向かってくる青い光を除いては。





 次から次へと起こる椿事に、俺は辟易としていた。どちらかと言えば、圧倒されている、という意味で。宅急便で人が届き、案内役をやらされたかと思えば、目の前で教授が行方不明になり、やってきたクラスメイトに神様宣言をされ、今度は青い光が窓からこれら一連の元凶エステルに向かって突っ込んできたのだ。元々机があった場所には大穴が開き、下から光が差し込んでくる。この下階の階段教室まで繋がってしまっているのか。授業のなかったことがどれだけ幸運に思えただろう。少々常識の範囲を超えて、いや、超えすぎている。

「――また大きくやるなぁ……とりあえず、下に降りましょう」

 苦笑しながら手を差し出したシャムスさんに応えるために右手を差し出したら、その手は震えていた。それが目の前の事象に対する恐怖なのか、見たこともない光景に対する期待の武者震いなのか、俺には判別できなかった。



∴    ∴    ∴



「――ほんに、お主は無茶苦茶しよるのう。念のために下階までシールドを張っておいて正解じゃったわ」

 俺たちが下の階段教室――E2401Rに着いたとき、エステルはスカートについた埃を払いながら、瓦礫の山の麓で仁王立ちをしていた。顔つきはさっきまでとは打って変わって、微笑――というか、寧ろニヤつき――が張り付いていた。

「やはり、円を利用したのは間違いではなかったのう、セルマ」

「はいっ、エステル様すごいっ!」

 背中からひょっこりとセルマが顔を出し、同調した。しかし何故だろう、エステルの言葉に妙な違和感が感じられた。

 その違和感に答えをつける暇もなく、エステルの前に積まれた山から、いくつかの瓦礫が落ちる音と共に、影がゆらりと立ち上がった。

「俟っておったぞ――ギルガメッシュ」

 その影は金髪にして、締まった体つき、その右手には時代遅れの大剣――差し込んだ光が顔を明らかにすると、欧米人らしい堀の深い顔に碧眼。それはまさしく、夕べの写真の男、ギルバート・ギグス、その人であった。

「俟っておった、じゃねェぞ、イシュタルさんよォ。まさか季道にまで手ェ出すなんて……」

「ここまでせねば、お主は妾の前に来ぬじゃろうが。妾はお主が思っているより、ずっと諦めが悪くての」

「執念深いだけだろ? 全く、困りもんだ」

 瓦礫の上の野性味溢れる青年とその下に立つ小柄な少女の会話とは思えない言葉の応酬。それだけでも違和感が溢れ出すというのに、俺はそれ以上の違和感を覚えていた。

「困り者はどっちじゃ。いい加減、妾の要望に応えてくれても良いではないか」

「そんなののためにお前のトコに来たんじゃねェよ。親友季道に手ェ出した分、きっちりお灸を据えねェとな」

 ――ああ、そうだ。脳内のシナプス達が音を立てた。そう、俺の覚えた違和感の正体はこれだ。

「――エステルは、悪役なのか」

 そう、この会話のおかしい点は、エステルがまるでロールプレイングゲームによくいる、序盤から主人公に付きまとうヒールの立場にいるようにしか思えないことだ。そして、ギルバートの方が親友を助けに来た主人公格。どう聞いてもそうにしか聞こえない。因みにセルマはエステルの腰巾着。そして、俺は――。

「そうだね。いや、小悪党に利用されちゃったみたいな感じでごめんね、理々くん」

 あまりにも容赦ない小悪党の姉の言葉に、一瞬力が抜けた。状況が把握できてスッとしたのは確かだが……あまり良い気分ではない。

「――さて、言いたいことはそれだけかの。ならば、そろそろ参るぞ」

「ああ、来い……よッ!」

 視線を戻すと、二人は既に戦闘態勢に入っていた。ギルバートはシンプルな大剣を構え、エステルは戦神らしく、しかしその体躯には似つかわない、長く大きくやたらゴテゴテとした意匠のついた槍――しかも、いつの間にあんな長物を用意していたのか――を持って、それに応じていた。



 それを確認した瞬間、二人は視界から忽然と姿を消した。少なくとも、俺が視認できる範囲に、彼女たちの姿はどこにも見当たらなかった。

 だが、しのぎを削る音だけは、右から、あるいは左から、更には上からも、教室という空間のあらゆる方向から響いていた。

「やっぱり、見失っちゃうよね」

 隣で、シャムスさんは苦笑いを漏らした。

「英雄王と呼ばれた男に、戦を掌る神。ギルバートくんはともかく、エステルはあんな格好だ戦えそうに見えないけど、やっぱりすごくて――私にも、この二人の戦いはいつも眼で追いきれないの」

 言いながら、戦場にはあまり関係のない姉は笑いながら頭を掻いた。命の危機なのではないか、という考えも頭に浮かんではいたが、このどこか『何があっても当然だよ』と言わんばかりの空気に押し流されそうになる。それに、だ。

「いつも、ってことは、前にも何度かあった、と」

「理々くんは鋭いねぇ。そのとおり、二人は前にも何度となくやり合ってる。今世紀に入ってからは……これで七回目かな。前の六回は全部スウェーデンで。ただ、前回がやりすぎたみたいで……ちょっとスウェーデンの公安系を怒らせちゃったみたいなのよ」

 そりゃあそうだろう。現時点でも、人が来ないのが不思議なくらいに、机だったか椅子だったかもう判別のつかない山があちこちに積もっている。本来ならば止めるべきなのだろうが、一般常識をはるかに超えてしまっていて、一体何をすればいいのかもわからない。効果的な手段がみつからない以上は、見守るしかないのだ。

「この程度の範囲ならシールド張ったりできるしゴマカせるんだけど……前回は“SEEK”で屋外移動中に交戦しちゃったみたいで、シールドも範囲指定できなくて中々大変だったみたい」

 刃の競り合う音と共に耳にした言葉の中に、不意に聞きなれない単語があった。“SEEK”……団体名なのか物の名なのかも検討がつかない。

「……あれ、エステルってば何も言っていないのね。“SEEK”は、エステルとセルマちゃん、それにKの三人が作った義賊――有り体に言っちゃえば、盗賊集団の名前なの」

 ……少々置いていかれそうな話の流れだ。義賊といえば、江戸時代に活躍したと伝えられるあの鼠小僧に代表される、盗賊の在り方の一方法だ。エステルたちがそんなものになっていた――とは、今までのことを考えるに、あまり想像できない。弱きを助け強きを挫く、なんて、Kとやらはよく知らないからともかくとして、あの二人の性に合っていないだろう。

「と言っても、まあ、盗んだものは全て、ギルバートくんに何らかの関係があるものばっかりでね、そうやって彼を呼び込んでは、いつもこうして戦って……」

「姉上、余計なことは仰らないで下さらぬかっ」

 にこやかに話すシャムスさんの話の腰を折るように、どこからかエステルが叫んだ。というか、目で追いきれないような移動をしながらこちらの会話を聞き取っているなんて――ああ、もう常人のものさしで測るのは止めよう。言っても彼女たちは、自称――最早、信じるしかなさそうな流れだが――神なのだから。

「――エステル様!」

 その直後だった、セルマの叫びが聞こえたと同時に、大きな衝撃音が教室中に響いた。音のした方向は、教室の右手前の壁。そこにエステルは眠るようにもたれていた。朱色の口の端から、更に紅いものを垂らして。白かったはずの服は煤け、窓から差し込む夕日で、余計に暗く見える。

「ッたくよォ、余裕こいてっから、油断、すんだよ……」

 左の方では、ギルバートが肩で息をしながら、やっとのところで立っていた。台詞も息絶え絶えで、さっきのエステルの声から比較するに、彼の方が押されていたのだろうと推測できた。

 果たして、この映像は現実なのだろうか。それとも、どこがしかで夢に入ってしまったのだろうか。リアリティのない世界に、依然として右腕は震えていた。

「――シャムスさん、助けなくていいんですか」

 声も震えているのが、容易に分かった。目の前の光景が飲み込めない。事の重大性を、見落としてしまっている気がする。

「残念だけど、私にはできないわ。私には、その行為が正しいのか誤りなのか、審判することしかできないから」

 彼女の眼にさえも笑顔はなく、真剣そのものであった。そして、言葉は冷ややかだった。

「さて、と……そろそろ、ケリつけてやるぜッ」

 男の目の前に何か大きな黒い球ができる。その球は次第に拡がりを見せる。アニメによくある光景だ。きっとコレがある程度まで拡がれば、エステルに向けて放たれるのだ。

 正しいのか、正しくないのか、この状況は、判断を、どうして、どうしたら、選ぶのは、誰が、誰か、俺は――――。



「――なッ、バカ! 伏せろ!」

 男の声が左耳の鼓膜を揺らしたとき、俺は何を考えて、その場に走っていたのだろう。黒い球は思ったよりも大きく、俺を丸っきり覆ってしまいそうだった。右の少女は、まだ眼を閉じていた。最初のときと、少し似ている。違うのは、彼女が赤褐色に汚れてしまったことと、俺の――。





 そして、俺の記憶はここで途絶えるのだ。そうだと思っていた。

「……マジ、かよ……一体どうなってンだよ」

 眼を開いた先に見えた世界は、さっきと大差ない場所だった。黒い球はどこにもない。唖然としたギルバートと、口元を押さえるシャムスさん、まだ眠るエステル。そして、状況を飲み込めない幸塚理々。

 妙な沈黙が、場を支配した。



「――今度こそマジで伏せろよ、馬鹿野郎っ!」

 それを打ち破ったのは、調子外れにキーの高い声だった。こんな独特な声、出せるモノを俺は一人しか知らない。

「食らえやボクさまのスーパーアタック――セルマ、フラァーッシュ!」

 言われるがままに伏せた瞬間、夕焼けの橙ではなく、目映い黄色の光に包まれたのが、垣間見えた。同時に、ギルバートの呻く声も聞こえた。

 それに安心し、瞬きをしたほんの僅かな一瞬だった。

「……済まぬな、理々。手を煩わせてしまったようじゃな」

「ダメ人間にしてはよくやった。だから、馬鹿野郎にランクアップしてやる!」

 眼を開けた先には、窓から差す夕日の中、眠っていたはずのエステルがいた。ついでにセルマも、何事もなかったかのようにエステルの肩にいた。

「そこまで驚くな。セルマの左眼には強烈な光を発させるモノを付けてあってな――その隙を突いて瓦礫の裏に回っただけじゃ」

 状況の飲み込めない俺に、エステルは諭すように言った。だが、そんなことは問題じゃない。問題はもっと色々あった。

「エステルの方は大丈夫なのか。ひどい怪我みたいだったけど」

「なに、大事無い。こんなのはすぐ治る。妾が曲がりなりにも神であることを忘れたのかえ」

 エステルは俺の心配をよそに冗談めかしながら答えた。けれども、その眼はあまり笑っていなかった。

「それより、お主の方こそ何もないのか。あのようなものを妾の身代わりに」

「あ、ああ、別に、なんともなかった。原理は良く分からないけれども……無事、らしい」

 エステルは言うや否や、怪我のないことを確認するために俺の体のあちこちを触り始めたので、少し慌てた。けれど、実際に外見上怪我はなく、いたって健康なのである。何故かはまるでわからないが。

「……そうか、良かった」

 エステルはひとしきり調べた後、顔を下に向けて言った。やたら安心したそぶりを見せるので、そんな大袈裟なと思いつつも、何も答えなかった。

「お主が無事で、本当に良かった」

 エステルは、満面の笑顔だった。それは、さっきまでの姉のそれをはるかに上回る、純粋な笑顔だった。あまりの素直さに、本当にエステルなのか疑わしいくらいに。

「何を、そんな……大袈裟だ」

 まずい、どういうワケだかしどろもどろになってる自分がいた。無意味に頬が紅潮する。明らかに脈拍も上昇している。

「大袈裟なわけがあるか。妾はお主を好いておるのじゃから、な」

 こんなことは当然じゃろう、と言いながら、彼女は微笑んでいた。

 待て。待つんだ。今、彼女はとんでもない台詞をさらりと言ったような気がした。俺の耳はどうかしてしまったのだろうか。いや、耳より頭だろうか。この際どちらでも構わない。どちらにせよ冷静になることが重要だ。

「それと――接吻しても、構わないか」

 どうかしてしまったのは、両方かもしれない。眼を潤ませ、可愛らしい表情を作り、彼女は言った。ああ、眼もやられているかもしれない。今まで、少し憎らしく思うことはあったけれど、逆にここまで愛らしい一面は見たことがない。何故それをこのタイミングで見せてくるのか。

「な、何を意識しておる。単なる礼じゃ。そこまで深く考えるでない」

 俺の焦りが伝わったのか、エステルも頬が紅潮し始めていた。夕焼けが、それを更に増幅させる。肩にいたはずのセルマはいつの間にか姿を消していた。なんなんだこのお膳立ては。単なる礼でキスってどういうことだ。さっきまで死闘を繰り広げていたとは思えない空間が広がっている。

「――お主から来ないのならば、妾から戴こう」

 ふと視線を元に戻すと、エステルがもう眼前に迫っていた。赤い頬、ルビーの眼、白い肌、そして、小さい朱色の唇。視界一杯に広がって、脳を大量の血が巡る。

 後はもう、流されるままだった。



 眼は閉じられなかった。右半分は、エステルのきめ細やかな肌と閉じた目で覆われていた。左半分は、夕焼けと、西の空に浮かぶ――あれは、宵の明星――。

『汝の性愛の力、確かに受け取った』

 鼓膜を介さず、脳に直接、声が響く。エステルの声にしては少し大人びていて。その声の持ち主を判別する暇もなく、俺の視界は黄色に覆われていた。





 瞼を開くと、そこには女性の後姿があった。紅い髪を銀細工の髪留めで一つにまとめ、その首筋は、日本人には見慣れぬ褐色の肌。そして、軽量であることを重視した帷子。しなやかに伸びた腕、その手が持つのは――先刻までエステルが使用していた長槍。

「こ・れ・が、エステル様の本気だっ!」

 俺の横からとてとてとセルマが顔を出した。あれが、エステルと同一人物。冗談がきつい。納得がいかないくらい変わりすぎている。

「エステル様は、金星がこの地上に出てるうちだけ、性愛の力を使って五千年前の本当の姿に戻れるんだよ。あああもうっ、これが強くて格好よくってさあっ!」

 セルマは体をくねくね捩じらせて悦に浸っていた。セルマのことは半分流しながら、目の前に立つ女性と、その奥の窓の前で疲労困憊のギルバートを見た。

「これなら、一分で片がつくね」

 セルマはヒヒ、と声を漏らしながら呟いた。

「だって、真の戦神イシュタルに敵はないんだから!」

 セルマが言い切るのと同時に、女性は走りだした。あまりの勢いにうっかり瞬いた直後、もう既に、彼女はギルバートを地に跪かせ、長槍の先端を顔に向けていた。

「――って、あれ? いつものイシュタル様より……強いかも?」

それは、長い道のりを共にしてきたはずのぬいぐるみさえも驚かせる――正に、瞬殺。

「これで文句はなかろう」

 その声は、さっき脳に直接響いたあの声と同じだった。凛とした、透き通る声。セルマが虜になってしまったのが、今更ながら理解できた。

「さあ、妾のものになれ、ギルガメッシュ」



 理解に、数秒かかった。いや、正確にはまだ理解していない。今の台詞は何だ。

 入り口の方で、シャムスさんはとても笑顔だった。その笑顔は、どちらかと言うと妹がよくしていたほうの表情だったが。一方のセルマは、あれさえなければ、ホントに格好いいんだけどなー、などと呟いていた。知らないのは――やはり俺だけか。そして、当の言われた本人は。

「厭だ」

 いともあっさりと棄却した。

「何故じゃ、妾はそなたより強いことを証明したじゃろう。それでも受け入れぬか」

「確かに、強い女しか認めねェとか言ったけどさ……前々から言ってンじゃん。お前と付き合っても碌なことになんないって。ドゥムジとかイシュラーヌとかさァ」

「そのようなことは断じてせぬわ。どうしてそなたをそんな目に遭わせられるか」

「ってーか、そもそも俺はお前に興味がないワケでな」

「なっ……妾はこれほど求めておるのにか」

「ああ」

「――っっ、ならば妾はどうすれば良い。どうすればそなたは満足するのじゃ」

 ……何なんだ、この会話。この状況下でさえなければ、普通に痴話喧嘩の類ではないか。

「エステル様、五千年も前からあいつのこと愛しちゃってるからさぁ……ああ、でもそんな一途なエステル様も好きっ」

 どうしたものか、乾いた笑いしか出てこない。数分前の俺の純情はどこに消えたのだろう。思考のスイッチを簡単に書き換えられるセルマが、とても羨ましく思えてきた。

「――まァでも、お前が強い女だ、ってのもわかったし……男に二言はねェ」

 一方で、ギルバートは視線を少し泳がせながら、その金髪のサイドをかき上げながら言った。その瞬間、エステルは持っていた長槍を落とした。

「――本当か、それは、本心で言っておるのか」

 声も上擦っている。エステルが動揺するだなんて、それ程想像していなかった言葉だったのか。いや、五千年もこの関係が続けていたと考えられる相手にそのような台詞を言われる、そのシチュエーションは動揺せざるを得ないだろうか。

 周囲を見渡せば、セルマもシャムスさんも、二人とも同じようにぽかんと口を空けていた。きっと、二人の間で理由は違うのだろうけど。

「別に構わないって言ってンだよ。一個だけ、条件が有るけどよ」

「条件、か――まあ良かろう」

 エステルは長槍を拾おうともせず、その手を所在無げに、後ろに回したり、前で組んだり、落ち着かないようだった。相も変らぬ口振りとはどこかズレがあって、こちらを何故だか落ち着かない気分にする。

「よし、じゃあ、季道がどこにいるか言え。もし何かに封印でもしてンなら、俺にも封が解けるようにして、俺に渡してくれ。ダチの居場所くらい――いいだろ?」

 ギルバートの要望は、尤もな主張だった。それを理由にココまで来たのだから当然のことだ。だが、俺には何かの予感がした。何かが不自然で、どこか合点がいかない。

「ああ、了承した。セルマ、あれを持ってまいれ」

 呼ばれたセルマは思った以上に素直に、瓦礫の後ろからあの蛇とも鳥ともつかない石像を引っ張り出すと、エステルの元に駆け寄って手早く手渡した。そして、エステルは石像の目前にて指で小さく円を描いた後、ギルバートの方を向き直った。その表情は実に晴れやかで、幼い姿のエステルとは異なり、それはそれで男性に好評を得るだろう、爽やかな表情だった。

「さあ、これに円が入っておる。受け取れ」

 エステルが左手で石像をギルバートに差し出した。あとはギルバートがこれを元の円教授に戻せば、このお話は大団円なのだろう。――本当に、そうなのか。何かが引っかかってならない。こんな、設定に圧倒されるばかりの物語に、整合性を求めるのが間違いなのだろうか。

「有り難う――そして、Ma'al Salama.」



 一瞬、何を言ったのか分からなかった。しかし、考え込む間もなくギルバートのポケットから球状のものがこぼれ、すさまじい閃光を放った。

「そう簡単にはいかねェってーの! 季道さえ取り返せればこっちのもんだ――じゃあな、イシュタル!」

 眩んだ目では姿を確認することはできないが、声は次第に遠ざかっていくのはわかった。しかも煙幕まで準備したらしく、目の前の状況すら確認ができない。軽い煙幕であったが、煙は煙。火災報知器でも鳴るんじゃないだろうかと考えたが、まるで音が鳴る気配は無い。シールドとやらはそこまで万能なのだろうか。

「待てっ、逃してなるものか、妾の――」

 遠巻きに、エステルの声が聞こえる。声が少し高いことは、俺の耳でもなんとなく分かった。

「エステル、ストップ! もう時間切れよ!」

 徐々に晴れる煙の中から、次第にエステルたちの姿が視認できるようになった。最初に見えたのは、一番背の高いシャムスさん。そのシャムスさんの黒と臙脂の腕の中で抱きとめられていたのは、銀色の髪の少女。元のエステルだった。

「残念だけど、もう金星も太陽も沈んだわ。ここまで、ね」

 エステルの表情は、目前で玩具を取られた子供のような、いかにも納得のいかないと言わんばかりだった。手元にあった玩具石像は、勿論なかった。



∴    ∴    ∴



「短い間じゃったが、世話になったの、理々」

 煙も完全に晴れた後、エステルとシャムスさんはその力――掌る星が沈んでも、決して力が使えない訳ではないらしい――を用いて、教室と円研究室を元のあるべき姿に戻していた。そんな、本来ならば物語の紡がれがたい場所で、エステルはそう言った。

「あら、もう追いかけるの?」

 言葉の見つからない俺に代わって発言したのはシャムスさんだった。エステルは直ぐさま、当然じゃ、と少々不機嫌な表情で答えた。それもそうだろう。姉曰く、今世紀七度目の失敗。しかも、一番近づくことができたのに。

「彼奴に円は元に戻せん。故に、一旦は本拠たるエディンバラに戻って態勢を立て直そうとするじゃろう。そこに、追い討ちをかける」

 むくれながら言うエステルの台詞には、一つ突っかかるところがあった。円教授を元に戻せない――交渉の内容には、ギルバートが封印を解けるようにすること、という項目があったはずだし、なによりエステル自身、その様にして円を描いていたはずだ。

「なんじゃ、理々――あんなの、演技に決まっておろう。妾があそこまで動揺すると思ってか。作戦の一じゃ」

 エステルは少しだけ胸を張って言った。今までの少し尊大な微笑をその顔に湛えて。しかし、彼女らしく思えるその表情は、俺の口角も少し上げさせた。台詞の胡散臭さによって、ではなく、純粋に彼女に釣られただけだ。実際、台詞は疑わしかったけれど。

「なんじゃ、ニヤつきおって……まあよい。それにな、妾は不法入国の身、長く日本に居ることはできぬ。いくら一国の首相がバックに居ようと、こればかりはフォローできんじゃろう」

 エステルは両手を挙げ、首を振った。確かに、あの登場の仕方荷物として日本に来たのでは、まさしく不法入国といえる。それならば、変に長居せずにすぐ飛び立った方が良い。それは理解できる。ただ、一箇所を除いて。

「――一国の首相、と聞こえたが……気のせいか」

 聞き返した瞬間の反応は、三者三様だった。シャムスさんはキョトンとし、セルマはニヤニヤとしていて、エステルは何がおかしいか、と言わんばかりに眉を顰めた。妙な、距離感だ。俺の目と鼻の先に横たわるエステルの長槍。その向こうが異世界である、と告げるかの如く。

「エステル、言ってなかったの?」

「てっきり言ったつもりじゃったが……うむ、Kという男がスウェーデンに居ることは知っておるじゃろう。あやつの本名は、クリストフェルKristoferカールションKarlsson――今、来日中のスウェーデン首相じゃ」

 エステル達は、本当にこの手の驚愕宣言が得意なのだな、と思った。会ってからもう何度目だろうか。そして、彼女達に驚かされるのも、何度目だったろう。

 言われてみれば、昨日のニュースでどこかの国の宰相が来日している、と伝えられていた気がする。俺は急いで携帯を開き、ポータルからニュースサイトへと飛ぶ。

「昨日、スウェーデンのカールション首相が来日した。今回の訪日は、スウェーデン大使館のイベント――」

「ああ、それは建前でな、本音は日本の公安の目を自分に向けさせ、妾達から遠ざける為じゃ。まあ、イベントも丁度よく有ったみたいじゃし……日程を合わせるのに苦労したわ」

 記事を読み上げる俺に被せるように、エステルはあっさりと裏事情を展開させた。その後に、これはKじゃから出来たこと、感謝せねばな、と続けて。勿論、それを受けたセルマは、今回の自分の功績を挙げ連ねて騒ぎ立てた。エステルは、分かっておる、とセルマの頭を撫で、シャムスさんはクスリと笑った。その光景は、夕べ感じた彼女たちへの感覚を、ふと思い出させた。

「なあ、エステル」

「――む、なんじゃ」

 けれど、今はそんな感傷には浸れなかった。いや、浸らなかった。

「一つだけ、聞きたいことがある」

 考えなかった、と言って誤魔化せないことがあったのだ。

「――俺は、お前にただ利用されただけの存在なのか?」

 尋ねたいことは本当は山程あった。学校に来れないだろう円教授の処遇も、Kとやらが本当にスウェーデンの首相であるのかも、はては、エステルのギルバートへの対応は本当に演技であったのかすらも、最早どうでも良かった。ただ、俺はエステルの“何”であったのか、ただ騙されただけの人間であったのか、それだけが聞きたかった。

「――理々」

 エステルは少しずつ、俺に近づいてきた。こつ、こつ、と足音が響く。セルマとシャムスさんはその場に留まり、ただこちらを見つめるだけだ。

 そして、俺の目前、横たわる長槍の手前で、彼女は歩を止めた。

「妾達は、人に信じて貰わなければその力を発揮できない――姉上はそう仰られたじゃろ。お主は妾の話を真っ向から否定できたはずじゃ。いや、そうするべきじゃった」

 エステルは眼を伏していた。その表情は、シャムスさんがその説明をしていた時のあの顔だ、というのはすぐに分かった。そして、それは俺の掌に力を込めさせた。

「然し、じゃ。お主はそれをせずに、妾を信じた。いや、信じてくれた。まあ、妾は少々、説明というのが苦手でな……結果的に、お主の心を欺いたようになってしまった。じゃが、の」

 それは急なことだった。エステルが俺の腕をグイと引いたのだ。俺はバランスを崩し、前方へ――長槍の向こう側へ、一歩、足を踏み込んでいた。

 気付くと、俺の胸の辺りに、エステルの銀髪があった。背に回された腕から、腹部に当たる胸から、温もりが伝導する。それは俺の末端神経を刺激して脳へ達する。そこで、今まで感じたことの無いような感情に変換される。

「お主は、妾の“存在”を真直ぐに信じた。それだけで――妾は十分じゃ」 形容詞も何も見つからない、胸に溢れる感情は――少なくとも、俺の今までの疑いがくだらないものであると、答えを出した。



「エ・ス・テ・ル・さまぁ☆ そろそろ、そこの馬鹿野郎から、この今回大活躍の可愛らしいボクさまに交代しませんかぁ?」

 どこかズレた高い声の馬鹿みたいな台詞と、妙な肩と頬の感覚にふと目を開くと、セルマが体をくねらせていた。おまけに、俺の頬を引っ張って。

「あーあ、我が妹がその名に違わぬことしちゃってるこの現状、姉としては複雑でーす」

 そして、エステルの真後ろでにこやかに話すシャムスさんの姿があった。そこまで笑顔だと裏がありそうで、なんか嫌だ。

「ふ、二人して莫迦なことを言うでない。姉上、後のことは宜しく頼んだ。セルマ、早く行くぞ。もたもたしていると後々面倒じゃ」

 エステルの切り替えは、非常に素早かった。腕を解いたかと思うとすぐに足元の長槍を拾い上げ、逃げるように向こうの鞄へと駆けていった。セルマも飛ぶようにそれについてゆく。

「――ああ、言い忘れておったがの」

 少し離れた場所で、エステルは思い出したように俺に向き直った。その声に、俺はふと身構えてしまった。

「やはり、若人のモノは美味いの。いつもより力が沸いたぞ」

 そして、唇を舌で舐めながら、そんな台詞を口にした。

「な、何だ、そのこっぱずかしい台詞は」

「ふふっ……感謝するぞ、理々」

 銀髪が、ふわりと揺れた。最後に見た笑顔は、何にも形容しがたい、今まで見た中で最高の笑顔だった。



∴    ∴    ∴



 本当に、嵐のようだった。思い返せば、これらが全て二十四時間のうちに終わったことが嘘のようだった。

 エステルとセルマは、来日中のKに合流するために七樹市を去った。セルマは、また段ボールになんて入りたくない、と駄々を捏ねていたが……果たして、どうなっただろう。東京には、そろそろ着いていることだろう。

 シャムスさんは、円教授の件で誤魔化さなければならぬこともあるし、俺が神々の存在を知ったと言うことで、一応、監視の意味も込めて、七樹市に残留することとしたらしい。イランの大学に復学する九月一杯まで、という話だ。エステルのことは心配じゃないのか、と問いかけたら、あの子は平気よ、やることが大きくて判りやすいし、ああ、ネットって便利よね、と返された。俺としては、こんな現代科学よりは貴女方の力の方が便利ではないか、とも思ったが、まあきっと、これはこれで大変なんだろうと思い、言葉を伏せた。

 しかし、嵐のようだったとはいえ、面白かった。面白い、という一単語で締めるのが惜しいほどに、エステルと過ごした時間は、価値のあるものだったと思う。最初のうちは暇つぶし、とか思っていたのにも拘らず、だ。それ以外にも、俺の価値観は一気に塗り替えられて。本当に、人の思考と言うものはあっさり変わるものだ、と帰り道の最中に感じた。

 けれども、本当に惜しく思うのは、俺はまた日常の中に戻る、ということだ。戻ってきたいつものマンションを眺め、俺は嘆息を漏らしていた。



「あ、遅いぞ馬鹿野郎!」

 それを聞いたのは、部屋の前だった。あの、調子っ外れにキーの高い声と。

「……理々、早く部屋の鍵を開けるのじゃ」

 その幼い声に似つかわない老成した口調の持ち主は、体育座りから慌てて立ち上がり、俺をまっすぐ見やった。

「…………何で、居るんだ」

 思わず、本音が漏れた。先刻の感傷もまるで台無しだ。何をどうすればこうなるのか、まるで納得がいかない。

「その、なんだ……Kにな、昨日の今日ではまだ警備が甘くないから、もう少し日本に留まりください、と言われてしまっての……そうじゃ、それにお主の体質魔を弾く力に関しても、多少調べねばならぬからの。しばらく……世話になる」

 良いか、と尋ねながら、エステルは罰が悪そうな表情をしていた。その借りてきた猫のようなしおらしい態度に既視感デジャヴュを覚えながらも、俺は笑って、部屋のドアの鍵を開けた。嵩むだろう食費の心配を、あの形容できない想いで押しやって。





 新たに見つけよう。その想いの名を、君と共に。







-This story's end is there.















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閉じて戻ってください。



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