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 ドアを開けたら、一面を白い絨毯が覆っていた。空からは、その原料となる綿が絶えることなく降り続ける。

 雪がこんなに降るなんて珍しい、と思いながら、私はいつもより大きめの傘を広げた。















あんまり寒いので、
温かい紅茶を戴けると嬉しく思います。














 私の住む街は基本的に雪の降らない地域にあって、降ったとしても積もらずすぐ溶けてしまう細雪しか降ることがない。それゆえ、冬は住みやすいと誤解されることが多いのだけれども、残念ながら寒いものは寒い。だから、どうせ寒いのならば、見渡す限りに広がる雪原で無限に遊びたい、等と願い、豪雪地帯を羨んだ時期もあった。しかしそれは、夢幻に思うほど昔のこと。中学時代に雪国から越してきた転校生の見聞により、何時しか願望は棄てられていた。

 見えない足元から、片栗粉を握りしめたような音が小気味よく鳴る。積もったばかりの新雪を踏みしめ歩くのは、心踊る行為であった。見たことも無いクセに、妙にノスタルジックなこの風景。自分の口角が僅かに上がっているのがわかった。確か、天気予報では明日の朝にはこの雪は止むと聞いた。だけど、きっとこの調子ならば、窓の外の見慣れた世界も、テレビの向こうの世界も、自分が見たことの無い世界すらも、明日の陽の光を受けて見たことの無い色に輝くだろう。その景色を夢想すると、自然に頬が緩む。何しろ今までに経験したことのない世界だ、いい歳をしていたって、期待に胸を膨らませてもいいはず、でしょう?



 足取りは軽い。軽くさせる素は、不意に帰路を逸れさせ、滅多に入らない道へ誘う。引き返すことなど、考えもしなかった。間近で見ることのない世界への期待は、私の足を容赦なく歩ませる。

 もし私が何等かの物語の住人であるならば、このような好奇心による行為は、直後の遭遇、または奇跡、或いは破滅のいずれかを呼ぶだろう。けれど、最近は奇跡も陳腐化して、滅多なことでない限りは、尊大な捻くれ者に批評家気取りの難癖をつけられる。その点、この先に待つのが破滅であった方が、きっと物語は特殊性を以て受け入れられるだろう。だけど、その場合は往々にして幸福な結末からは離れていってしまう。そのことが、私にとっては受け入れがたく思われる。あの子の為にも、私はその道を択んではいけない。

 その思いは神に届いたのか、それとも単に私が物語の住人でなかったのか。何れにせよ、廻り道をしていた私には、街灯に照らされた白い絨毯が出迎えるばかりで、危険が訪れることはなかった。その逆に位置するものも、また。そもそも、目の前の光景街を覆う白布自体が、奇跡の顕れなのかもしれないけれど。だとすれば、それは誰が、誰へと贈ったものなのだろう。私がその物語へと繋がる術を持たない以上、それを知ることもないだろう。けれど、もしもこれがあの子へと贈られたものだったら、私はどれだけ幸せだろう、ねえ?





 街灯が、その足元だけを淡く照らす。小さな雪原には、白い小人達が影を創り踊る。そんな、夢でしか見ることのなかった愛らしい世界。

「随分、遅かったね」

 その世界から、元々居た世界へ、声だけで引き戻す存在があった。黒の短髪を白く化粧した彼の存在は、即ち私が家に辿り着いたコトを意味する。それは同時に、私と初めての世界との別れを示す。

「こんなに雪が積もったの、初めてだったから、少しだけ寄り道しながら歩いたの」

 けれど、それほど惜しい気持ち無かった。どうしてか、またこの景色が見られるのではないか、と思って。

「いかにも、らしい答えだね」

 私の言葉を聞いた彼は、目を細めてそう言った。私も、そうでしょ、と目尻を下げて答えた。

 ここが、私が居た穏やかな世界。本物の小人が踊るような幻想的なものではないけれど、愛する人のいる、温かい世界。



 私には、彼に話したいコトが山ほどあった。見せたくてたまらないモノ、店先で見た可笑しなコト、心弾む景色のコト、挙げればキリのないほどに。それを伝える為に、私は彼との物理的距離を縮める必要があった。

「ねえ、お店で珍しい櫛をみつけたのよ。黒檀でできてる」

 左手でその櫛を取り出したときだった。踏み出した右足が、力の入れ場を失った。同時に、視界の下方へ移ってゆく彼の顔が、一瞬でその目は大きくなり、慌てたような様相を見せたが、姿はすぐに見えなくなってしまった。嗚呼、私に待っていたのは、やはり――





 手を引かれ、また身体の浮く感覚がした。その後に臀部に響くはずだった衝撃は、殆ど無かった。寧ろ、どこか柔らかで、温かな感覚。

 ふと下を見れば、自らの顔面を押さえる彼の姿。

「あの、ごめんなさい」

「大丈夫だよ、気にしないで。それよりも、怪我はない? ああ、紐も解けている。どれだけ遠くに行ったかは知らないけれど、あまり羽目を外し過ぎてはいけないよ。君だけの身体じゃないのだから」

 彼は私に立ち上がるように促しながら、そう口添えた。その助言には、私は苦笑することしかできなかった。

 私が立ち上がって雪を払い出してから、彼は一息吐いておもむろに腰を上げた。同時に、雪原に円形の紅い模様を残しながら。

「ねえ、もしかして」

 腕を出来るだけ伸ばして彼の顔をこちらに向けると、彼の鼻孔から紅い一筋の線が生まれていた。

「ああ、ごめんなさい。私が不注意だったばかりに」

 私は鞄から慌ててティッシュを抜き取り、謝り続けながら彼の鼻の下を拭った。彼は、気にしなくていいと言ったでしょう、と拒んだが、そういうわけにはいかない。助けてもらったことに報いないなんて、あの子の目の前で出来るわけが無いのだから。





 彼の鼻血が治まり、一息吐く。きっと、私を受け止めた際に強く打ったのが原因なのだろう。彼には本当に感謝しきりだ。守ること、というのは本当に難しいことだ。こうして目に見える形で守られる場合もあるが、これは一番分かりやすい守ること、である。だけれど、守ること、というのは本質的にそれほど表出するモノではないのだと思う。遠くから見つめるコトだって、十分な守ることの一つであると、私は信じたい。そうでなければ、私はきっとあの子を守れないだろうから。そんな私なんて、いないほうがいいじゃない。





 不意に、さっきまで持っていた黒檀の櫛が手元に無いことに気付いた。転倒した際のショックでどこかに飛んでいってしまったのだろうかと、雪原を見渡してみる。この場所を改めて見渡すと、本当に別世界であった。ここが本当に自らの家の前であるかをも疑いたくなるくらい、その白は世界を変革していた。ただ、その中に小さな紅い円が点々と続いている。そして、そのほんの少し先に黒い櫛は横たわっていた。透きとおるほど白い雪の中の、黒檀の深くつややかな光、鮮やかなまでの血の紅。その色のコントラストは蠱惑的な誘いを含んで、私を取り込まんとする。この色は、私に何を伝えようとしているのだろう。急に、寒気がした。

「どうしたの、寒いの?」

 唐突な彼の声に全身で驚いてしまったものの、言葉の意味をゆっくり理解して、曖昧に頷いた。彼はそれを見て、あまり身体を冷やすといけないからね、と言って私の右手を取り、家の中へと引いた。思えば、雪の降るような場所に長い時間いたのだ。凍えるような感覚がするのも無理はない。この街で、ここまで寒いことはそうそう無いのだから。

 そして、これから先に、二人でこの景色を見ることは、きっと無いだろう。見るとするならば――



「ねえ」

「何?」

「あんまり寒いので、温かい紅茶を戴けると嬉しく思います」

 どうして丁寧語で言ったのかはよく分からなかった。けれど、その時の彼の苦笑いはとても愛らしくて、この笑顔をあの子と分け合っていくことが、楽しみでもあり不安でもあった。





「じゃあ、林檎でも剥いてあげるよ」

「その前に、ちゃんと鏡を見て雪を落としてね。頭、結構積もってたよ?」





-The story started from this point.-















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閉じて戻ってください。



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