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「本当に、これで良いのですか?」

「うるさい! Kは黙って言われたとおりにし」

「お前の方が五月蝿いわ、このたわけ。……それにしても、お主は心配性じゃな。わらわが決めたことじゃ、もう少し信用せい」

「ですが……」

「妾達ならば如何とでもなるわ。それより、お主自身の心配をしたらどうじゃ。下手を打てば、お主の立場が危ういのではないか」

「私でしたら、貴女のお力添えさえあれば」

「……これでもまだ、お主は信ずるか。ふふ、愛い奴め」

「うー、なんでKばっかり! ボクさまも抱いて愛でて踏ん付けて!」

「その口を綴じたら、聞いてやっても良いぞ」

「あわわ、ボクさまのアイデンティティがー!」

「やれやれ……まあ良い、コレを閉じたら、お主とは暫しの別れ。後々の事は頼んだぞ、妾が名の下に」

「仰せの儘に」















SEEK













 非常に不可解だった。

 ゴールデンウィークも過ぎ去って久しい五月の中頃。世間では妙に憂鬱がったり退屈がったりする病を抱える人――まぁ、俺も例外とはいえないが――が増えてくる、そんな頃合いだ。今日のトップニュースは、どこかの首相の来日。「〜〜ション」と言っていたから、きっと北欧あたりだろう。そんなあまり大きくない事柄が一番に来るような、退屈な日。その日が暮れて二時間くらい経った頃、急に宅急便が来て、約一メートル四方のこの大きな荷物を部屋に置いていったのだ。まあ、得体の知れないものをうっかり――早くこの重たい荷物を下ろしたい、と言わんばかりの配達員の目に負け、確認もせず――受け取ってしまった自分も自分だが、一体これは何なのであろうか。

 勿論、こんな大きな買い物なんてした覚えはない。この大きさから考えるに、中身は洗濯機か小型冷蔵庫辺りだろうか。洗濯機なら、最近調子が悪いなと思っていたところだったので、非常に助かる。テーブルの上のコンポから流れてくる音楽に耳を傾けながら、そんなことを思った。

 とは言え、身に覚えのない荷物、開けて確かめるわけにはいかない。仕方がないので、贈り主を確認して返却しようと考え、荷札を見た。宛名は楷書でしっかりと「七樹市ナナキシ氷川ヒカワ三‐九‐二 三〇二号室 幸塚コウヅカ 理々コトリ」と、俺の名前と住所が記されていた。一方の贈り主の欄は、筆記体のアルファベットがダラダラと綴られていた。笑ってしまいそうになるくらい、訳がわからなかった。

 贈り主は不明だが、宛て先はどう見ても俺。着払いでもないようだし、向こう贈り主の国の割れ物シールらしいものは張ってある――書かれてあった文字の中にウムラウトが幾つかあったから、多分ドイツ又は北欧系の言語のようだ――が、特に危険物でもないだろう。俺は思いきって、この箱を開けることを決意した。

 頑丈にガムテープで固定された角から、カッターを入れて扉を裂く。中のモノに傷を付けないよう、丁寧に。上部を線に沿ってHの字に切り、一旦カッターを机に置いてから、ゆっくりとそれを開ける。

「…………あ」

 俺は叫ばなかった自分を褒めようかと思った。少々間抜けな声が出ようが、叫ばなかったことに意味がある。下手に叫んで周囲の住人がこちらに来たなら、間違いなく大事になっていただろう。覗き込んだ先にあったのが、少女の形をしたものだったのだから。

 なんとなく音楽を停止させ、箱から引きずり出したそれは、きめ細やかな白い肌を持っていた。白を基調としたやたらフリフリした服――いわゆる、ロリータというジャンルだろうか――や銀色の真っ直ぐな髪、長く揃った睫毛などから、どこか西洋人形を思わせた。いやむしろそうであってくれと願い、もしものことも考えながら慎重に頬へ手を伸ばした。が、予想以上に質感はふんわりとしていて、確実に人の温もりを、それは持っていた。

 多分、小学校高学年くらいの歳だろうか。けど、日本人から見ると欧米の人々は往々にして大人びて見えることが多いし、腕にテディベアも抱えているから、ひょっとしたら低学年かもしれない。ただ気にかかるのは、そのテディベアがやたらパンキッシュなことであるが。耳はピアスだらけで、毛色もピンクのメッシュがかかってる上に、左目は脱脂綿の眼帯までしている。彼女の趣味なのだろうか。だとしたら……俺にしてみたら、少し嫌だ。まあ、受けるところには受けるのかもしれないが。ついさっき流していた曲の中にも、好みそうなバンドがいると言えばいる。

 考えが脱線してしまった。今の問題はそういうところではない。どうして、俺の住所にこの娘が“届いた”のか。そして、この娘は一体“何”なのか。その二点が、ひとまずの問題であった。

 それにしても、と俺は腰を落ち着け、自分自身について少し考えた。物語によくある展開としては、こんな予想外の事態が発生したときは、うろたえるか冷静に受け止めるか二つに一つだが、実際にそんなことが起きたとき、自分は前者のパターンになるだろうと考えていた。しかし俺は意外と落ち着いていた。とは言え、実はこのことについては結構驚いている。と言うか、驚いていない方がどうかしている。それなのに、思った以上にこの事態を受け入れられているのは、俺の肚が据わっているからだろうか。いや、単に物語に共感しすぎているのか。だとしたら、もう少し読書のスタイルを考えた方が良いだろう。物語の意外性を楽しめなくなってしまうから。

 そして、俺は今回の意外性の発生源を改めて見つめた。それは目覚めていないのに、いや、目覚めていないから、その場所に“静”を湛えさせていた。自分の部屋だというのに、その周囲だけ切り取られたかのように、そこは神秘的な空気が纏われていた。



「オイコラ、そこの人間」

 今までの静寂を打ち破る、調子外れにキーの高い振動が鼓膜に伝わった。だが、目の前の少女はその瞼を開けた様子はない。それに、さっきの音の主が彼女だと考えるには、少しコミカルすぎる音だった。

「こっちだっての、バカ人間!」

 もう一度、今度はしっかりと聞き取れた。目線を声がした向き、もう少し下に移す。そこにいたのは。

「ココがどこでお前が誰か、手短にわかりやすく説明しろ!」

 さっきまで少女に抱かれていたはずの、珍妙なテディベアだった。



「…………」

 さすがに、冗談がキツイ。少女が届いただけなら――本来あってはならないが、少しの動揺と共に処理できないわけではないから――まだしも、テディベアが喋るのは、あまりにも少女趣味メルヘンティックすぎて、対処法もわからない。

「おい人間、まさかとは思うけど――」

 当惑した俺を見て、そのテディベアは口をへの字に曲げていた。機嫌を損ねてしまったのだろうか。だとしたら少々マズい。第一印象でイメージを下げると、後々――クマ相手にそこまで関係を持つとも思わないが――までそれが引きずられる傾向がある。それは相手が何であれ、避けた方が良い。何か弁明を考え、俺は口を開きかけた。

「ボクさまに見惚れてるのかー?」

 次の瞬間には、舌を噛みそうになったが。俺にはできそうにない勘違いを平然とやってのけたそのクマは、やっぱりボクさまのプリティーさはグローバルスタンダードなんだねー、だの、ああ憎い、ボクさまのこの可愛らしさが憎いっ、だの、身をよじらせながら戯言を吐いていた。俺は安堵したと同時に呆れつつ、かつこの目の前の状況を処理しようと思考を廻らせた。どう見てもただのテディベアとしか思えないぬいぐるみが、動いている。あまつさえ、譫言を垂らしながら。何の原理が働けば、こんなことが起きるのだろうか。最新科学でも、ここまで滑らかに口上を述べ、しなやかに動くロボットは聞いたことがない。

 呆気にとられた俺をよそに、向こうはさんざっぱら悦に入った後、我に返ったように少女の下へ戻ってから、改めてこちらを見た。

「でも、残念でしたっ。ボクさまの心と体は、全てエステル様のものなんだから! お前みたいな冴えない人間なんか、お断りだもんねーだ!」

 そして、勝手に勝利宣言をしだした。論理が飛びすぎていて、軽く貶されても反論する気にもならない。一体誰がこんな思考回路を持たせたのだろうか。どうせ付属させるなら、もう少しマシなモノをつければ良いだろうに。俺はフゥ、と溜息を吐いた。

「ふっふー。ぐぅの音も出ないかー。所詮、人間なんてこんなもんだ……あいた!」

 あんまり煩いから、そろそろ軽く蹴っ飛ばしてやろうかな、などと考えていたら、高らかに笑っていたクマの頭頂に、見事な手刀が入った。俺はクマが痛みに頭を抱えるのを無視して、その手の行方を追った。その透き通りそうな肌をした手は、程なく銀色の髪に着けたヘッドドレスに伸びて、その些細なズレを直した。

「ふぅ、すまなかったな、若人。妾の連れが迷惑をかけた」

 まさか、動くだなんて――。すでに生きているものだと確認していたにも拘らず、俺は目前の光景に呆然としていた。いかにも子供らしい声とは不釣合いの口調で、さっきまで眠っていた少女が、そこに立っていたのだから。ついでに言えば、不釣合いなのは台詞だけじゃない。威厳、と表現すればいいのだろうか、どこからそれが出てくるのかはわからないが、その姿に俺はまず戸惑いを、そして気付けば畏怖を覚えていた。

「まあ、そう硬くなるでない。色々と驚いておることは、妾とて判っておる。その話も兼ねて……」

 現状に対して非常に落ち着いた声色で、初対面であるはずの俺に話しかける、“エステル様”と呼ばれた彼女。何一つ不純物を含まない、ルビーをはめ込んだような、丸く大きな紅い眼が、ジッと俺を見つめた。眼を逸らしてくても逸らせない、蛇に見つめられてしまった蛙のような、そんな心地がした。

「そうじゃな、まずは飲料を持って参れ。妾達も中々長い旅路じゃったからの。話は、それからでも遅くはあるまい」

 彼女は目尻を緩ませて、俺にそう告げた。聞きたいことばかりが俺の頭を駆け巡っていたが、それを整理するにも丁度良いだろう。そう思い、彼女の指示に従う形にはなったが、飲み物を準備してやることにした。わかった、と彼女に言いつつ台所へと振り向き、口調からして緑茶とかが好みだろうか、と考えた矢先に、背後から声がした。

「妾には、甘い味のものを用意せい。苦いものは好かんのでな」

 老成しているのか、本当はやっぱり子供なのか、少しわからなくなった。





「遅い! エステル様を待たせるとか無礼すぎ! 人間のクセに超ナマイキ!」

 飲み物を持って戻ってくると、さっきのクマがソファーに座った彼女の膝の上で叫んでいた。わざわざお前の分まで用意したというのに、と恨み言でも吐いてやろうかと思う間もなく、それは彼女に頬を引っ張られていた。

「コレの言うことは、余り真に受けるでない。こやつは人間が嫌いなのでな、少々五月蝿いじゃろうが、我慢してくれ」

 いひゃいいひゃいれす、とクマが三回言った辺りで、彼女はその手を離した。随分手馴れた様子で、付き合いの長さが感じられた。俺は目の前のテーブルに飲み物を置いて、向かいのソファーに座った。

「さてと……そうじゃな、自己紹介が遅れたな。お主の名は何と言う」

「幸塚理々。幸いに一里塚の塚、理解の理が二文字でコトリだ」

 俺から聴かれることに疑問を持ちはしたが、その紅い眼に逆らうことは出来なかった。漢字の説明まで言ったが、彼女はどう贔屓目に見ても日本人には見えない。けれど、音のわりに珍しい名じゃな、としっかり理解したように応えた。

「妾の名は、エステル・エルサ・エイジェルステット。生まれは一応、スウェーデンのイェーテボリ、此間まではストックホルムにおった」

 それを聞いて、俺はますます疑いを深くした。スウェーデンと日本、こんな距離があるところなのに、彼女は何故ここに来たのか。さらに言えば、こんなに日本語を流暢に喋ることだっておかしい。スウェーデンが日本語教育に熱心だ、なんて話は全く聞いたことが無い。彼女はそんな俺の疑問も知らずに、クマにもちゃんと名乗るよう指示していた。

「……ボクさまの名前は、セルマ・セイデリア。でも、ボクさまのことは絶っ対にファーストネームで呼ぶなよ! ボクさまをセルマ、って呼んでいいのはエステル様だけなんだか」

 妙に敵意丸出しで突っかかろうとしてきたクマは、エステルにもう一度手刀を喰らい、さらには一言多い、と苦言を呈され、不満げな顔をしてエステルの膝上にペタリと座った。

「さて、妾たちがここにおることと言い、お主には疑問が山積しとるじゃろ。順を追って説明してやるからな、暫し聴いておれ」

 膝の上でしょげっぱなしのクマを隣のソファーに退かして、彼女は息を吐いた。こちらから闇雲に質問するよりは、順序立てて説明してくれた方が、こちらとしてもありがたかった。

「妾達は、この男を捜しておる」

 そう口にすると、彼女は肩に掛けていた小さなポシェットから、三枚の写真をテーブルの上に出した。写真にいたのはいずれも、大体二十代前半と思しき金髪碧眼の男であった。この写真をメディアで流したら、世のワイドショー好きの淑女達は、その野性味溢れる顔にがっちり食いつくだろうな、などと余計なことを考えた。しかし、その彼が彼女達と、ひいては俺とどう関わりがあるというのだろうか。

「名前は、ギルバート・ギグス。スコットランドのエディンバラ大学の生徒、ということになっておるんじゃが、妾は彼奴にちょっとした用があっての」

 彼女の眉間に、少し皺が寄った。どうやらその用とは、浅からぬ因縁による様だ。

「彼奴もまた、つい此間までストックホルムにおってな、もう少しの所まで追い詰めたが、済んでのところで逃してしまってな」

 言いながら、彼女は白くか細い人差し指をこめかみに当てていた。眉間には依然として、深く皺が寄せられていた。語気にさしたる変化は無かったものの、思い出して腹立たしい思いに駆られているのが一目で判った。

「……悪い、少々気が立ってしまっての。気にするでない」

 彼女は右頬に軽く拳を当て、数秒間だけ目蓋を閉じていたが、すぐに顔を戻した。

「そのギルバート・ギグスじゃがな、日本のまどか教授と知己でな。飛行機の便からも、日本に来ている可能性が高い」

「円、教授って、まさか――」

 俺はその言葉に心当たりがあった。不意を衝いて出てきたものだから驚きはした。だが、円なんて苗字はそこまで数多くはない。

青葉せいよう大学文学部、円季道すえみち教授。お主の所属する大学の師で相違無い」

 ビンゴ。そうならなければ彼女と俺を繋ぐ線はない。となれば、次に続く言葉も自ずと決まる。

「此処まで解れば、妾の言わんとしとることは視えたじゃろう。じゃが、そんな案内を頼みたいだけじゃったら、そこらにいる輩に頼めば済む話。そんなことで態々こんな箱段ボールに入っては来ぬわ」

 薄ら笑いを浮かべた彼女に、俺は疑問符を浮かべるしかなかった。道案内以外に何かあるとでも言うのだろうか。勿論、そうでなくてはわざわざ俺を指名してココまで来た意味はないが、まだ他にも何かあるというのか――。視界の端で、クマが退屈そうに横に転がった。その様子を見たエステルは、クマに腹部に軽く手刀を入れると、むぎゅる、と変な声をあげさせた。

「承服致しかねる、と言った顔をしておるの。とは言え、これ以上は言ってしまうより、行ってみた方がよかろう。どちらにせよ、お主を連れて目的地へ赴くことに変わりは無いからの」

 俺に拒否権は無い、と言うことだろうか。片側の口角がヒクつくのを抑えながら、俺は改めてエステルを見た。その紅い眼は、非常に真直ぐだった。冗句を言ったつもりなどさらさら無いようだ。

 俺がふうと溜息を吐いて視線を逸らすと、彼女はよっこいしょ、と年齢の疑われそうな声を出しながら、おもむろに立ち上がった。続いて、クマもエステルの左肩にひょいと飛び乗った。

 それにしても、本当に彼女――一応、彼女たち、と言うべきか――の素性は解らない。姓名と出身地、日本に来た目的、俺は最低限を知っただけで、残りは何も知らない。俺が青葉大学に通う学生であることを知った情報源だって、何も。だと言うのに、俺は何もせずにいた。いや、できなかった。決して、最初のように紅い目に怯んだ訳ではない。

「……なぁ、エステル」

「なんじゃ、何かあるの」

「えぇいこのクソ人間! エステル様を呼び捨てとは良い度胸して」

「黙れこのたわけ」

「むきゅー」

 エステルが騒ぐクマにアイアンクローをかます。その姿は、少しやんちゃなお嬢様がぬいぐるみと戯れている、考えようによっては至極普通な光景であった。その二人が一人を追うためにわざわざこの極東まで来た、それは果たして真の理由なのだろうか。何か、もっと深い何かが、彼女たちを動かしているような気がしてならないのだ。

「――それで、如何した」

「あ……いや。何でもない」

 けれど、俺はその光景を笑わないように堪え、考えなかったことにした。理由は、特に無いけれど、今はそれで良いか、と思ったから。

「まぁ、今すぐにでも発ちたいところではあるが、安定した教授という立場に就いている人間が直ぐに腰を上げるとは考え難い。明日の夕刻前、お主にはまず案内を頼むぞ」

 随分と悠長なことを言うんだな、と返しながらエステルの顔を見上げた。さっきは仇敵赦すまじとでも言わんばかりの顔をしていたのに、今は幼く可愛いげのある、けれども少し尊大――上から見られている所為かもしれないが――な、憎めない顔をしていた。

「悠長も何も、妾達は結構な長旅を強いられたからの。体中の彼方此方が凝ってしまったわ」

 半日程度休んでも構うまい、と手を後ろに組んでいかにも疲労したように伸ばしながらエステルは言った。

「Kのやつ、エステル様をこんな狭いトコに押し込みやがって……今度会ったらぼっこぼこに」

「仕方あるまい。あの状況下ではああ切り抜ける以外に手立ては有ったかえ」

「う、それは……」

 彼女の左肩でクマは騒ぎ立てたが、あっさりと言い返されて俯いた。そうだ、うっかり忘れていたが、人間である――一人は明らかにぬいぐるみだが――はずの彼女たちが、普通に飛行機で来ればいいものを、わざわざ配達物に化けて日本に来た、という事象には違和感しか覚えない。そして、それを指示し、且つ“俺の家”に宛名を書いただろう“K”とは。どうにも不透明な感じが否めない。

「なに、そうせざるを得ない情況になったから仕方なく、じゃ。追うと同時に、抜け出さなくてはならなくなった、とも言えるがの。その為にも、協力者というのは重要なものであろう」

 のう、とエステルは不敵に笑った。

 思ったのだが、彼女の答弁は少しばかり狡い。自分から答えてはくれるものの、肝心な部分は、有無を言わせぬ迫力――語調は決して怒りを含んだもので無いはずなのに――でそれを隠匿する。疑問を聞き出すタイミングがないのだ。



「したらば、そろそろいとまを貰うとするかの」

 俺がぼんやりと思考に耽っている間に、彼女の中では話が終わっていたらしい。おもむろに服のボタンを胸元から外し、その隙間から白い肌が露わに――。

「や、ちょっと待て」

「なんじゃ、まだ何かあるのか」

 エステルは呆れたような顔をしてこちらを見た。冷静になれ、理々。俺は決して間違っていない。

「そこで何故脱ぐ」

 俺は当然のはずの疑問をぶつけた。いきなり女子が男子の目の前で脱ぎ出すなんて、おかしな話のはずだ。少なくとも、俺の生きてきた常識の中ではそうだった。

「長旅をした、と言ったじゃろうに。あんなのに入って湯船に浸かれるとでも思ったか」

「いや、そうじゃなくて、何故俺の目の前で脱ぐのか、って聞いてるんだよ」

「別に何処で脱ごうが妾の勝手じゃろ。それともアレか、こんな幼女の躰で滾ってしまう性癖タチなのかえ」

「わー、理々ちゃんへーんたーい☆」

 エステルの言葉にクマまで囃し立て、少し自分の頭が熱くなるのを感じた。落ち着くんだ、相手は年端もいかない少女たぶん小学生だ。熱くなる必要はない。

「そんな訳あるか。別にシャワーとかは使っても構わないが、せめて部屋主に断れ、って。それは最低限の礼儀じゃないか」

「全く、融通が効かんの。あんまり細かく指図するようであれば――」



 エステルは依然呆れたような表情のままだったが、急に言葉を止め、会話に隙間が空いた。

 不意に始まった睨み合いに俺は少し戸惑いはしたが、視線を外すことはしなかった。小さな顔に対し大きく、兎を思わせるような紅い眼。不思議と、最初の吸い込まれるような感覚はなかった。

「――指図するようなら、何だ」

 とは言え、あまりこのような無言の空間は好きじゃない。独り暮しをするようになってこの方、無音の空間というのは作らないように努めだしたくらい、完全な無音は苦手だった。

「……ウソ、なんでお前エステル様の」

「いや、何でもない。妾も少々疲れておったようじゃな。先刻の発言、無かったことにしておくれ。妾は湯船に浸かってくる。お主も明日の為に床に就くが良い」

 クマが何か言おうとしたのを掻き消すようにエステルは告げ、踵を返して表情を見せる隙も与えないくらい足早に風呂場に向かっていった。

 一体、何だと言うのか。俺は嘆息してソファーに寝転がった。彼女のことはやはりよくわからない。あんな珍妙な登場をし、その日のうちに分かる方がどうかしているのかも知れないが。難儀だな、と思いつつも俺は、ちょっとした充足感を得ていることに気付いた。少なくとも、今は退屈ではない。少女の道案内プラスアルファ程度なら大事にはなるまい。多少の不可思議さは置いておくとして、退屈しのぎには持って来いだ。俺には珍しく、プラスな思考が働いている。あまりにもらしくないので、少し笑いそうになった。

 不意に、あくびが出た。横になったことで身体がリラックスしたのだろうか。やはり初対面の人間と話すことはそれなりのプレッシャーなり何なりが働くようだ。少し偉ぶった彼女の言に結果的に従うことになるのは少々癪ではあったが、俺はそのままソファーで眠ることにした。

「……済まぬ、理々」

 薄ぼんやりとしかけた視界の奥の方から、声がした。焦点を合わせると、風呂場の方面から銀色の頭をひょっこりと出したエステルが見えた。

「箱の中にカート付の鞄があるじゃろ。それを此方に持ってきてはくれぬか。着替えを持っていき忘れてな……セルマには持ち運べぬし……」

 勢いよく行った手前、少し罰の悪そうな顔をした彼女に、吹きだしそうになった。と同時に、一瞬だけでも可愛いと思ってしまった自分に、頭の中でストレートパンチを浴びせた。とりあえず、鞄にタオルもセットにして運びながら。



♀    ♀    ♀



「エステル様、どうしてアイツには通じなかったの?」

「……詳しくは判らぬが、まあ、あやつはあやつなりに、何がしかの事情がある、というだけのことじゃろう。Kの奴も、此処まで思案するとはな」

「けど、そんな奴で本当に大丈夫なんです? もし万が一のことがあったら……」

「案ずるな、逆に手許に置いておければ好機もあると言うことじゃ。第一、妾がそんな下手を打ったことがあったかえ」

「エステル様はそんなことしませんって! けど……ボクさまはアイツが嫌い!」

「そうか。妾はあのようなタイプは嫌いではない。あのような固めの男を崩すのは中々面白い」

「それがイヤなのっ! エステル様がボクさまのこと見てくれなくなるって言うか……」

「何を言うておる。今、妾に一番近いのはお主じゃろうに」

「……あ、本当だっ! えへへ、エステルさま〜」

「……ふう、彼奴もこう素直に落ちればよいものを、のう」

「……エステル様?」

「いや、何でもない。そろそろ休むかの」

「はーいっ」



∴    ∴    ∴



「で、ココが青葉大学七樹キャンパスですよ、と」

 翌日、昼を過ぎてから俺たちは大学に訪れた。俺は水曜に授業を取ってないので、本来なら今日は休みで大学に来なくて良い。つまり、エステルの案内のためだけにココに来たと言える。まあ、安請合いをしてしまった自分の責任であるから、特に気にしないことにしたが。それに、今日の出来事を鑑みれば、そんなことは些細なことだった。



 今朝、まず眼を覚ますと、身体のあちこちが痛んだ。うっかりソファーで寝てしまった――ベッドはエステルたちがしっかり支配していた――為のものだ。ある意味自責であったが、肩を中心に軋んでどうしようもなかった。

 軽く朝食を作ろうと思ったが、独り暮らしの冷蔵庫である。残念なことに材料が足らなかった。米も一人分と中途半端にしか残っていなかったので、自炊を諦め、エステルたちが起きるのを待って外食チェーン店に出かけることにした。が、エステルたちは中々目覚める気配が無い。長旅の疲れもあるのだろうと思って、自力で目覚めるのを待ってみたものの、二時間経っても眼を覚まさなかった。俺も二度寝してやろうかと思った十時過ぎにやっと目覚め、外食に行くことを告げたら「普通、もてなしは手料理じゃないんですかー?」とクマは抜かした。すぐさまエステルの手刀を喰らっていたが。

 そのエステルだが、彼女はその小柄な身体の割によく食べた。俺と同等かそれより少し多いとか、どれだけエネルギーが不足していたのだろうか。そしてその細い体のどこにそれが収容されたのだか、全くわからなかった。知れたのは、今度は俺の懐が不足したことだった。バイトの給料日は、明々後日だったろうか。



 ……そして、今に至る。並べ立てると愚痴のようになったが、会って二日目の人間にここまで振り回されるとは思っていなかった――普通なら遠慮と言うものがあるだろうに――のだから、致し方ない。

「へー、大学の割にはなんかちゃちくない?」

「日本は人の割に広い国ではない。規模が小さいのも自明。故郷ストックホルムと較べるのが間違いじゃ」

 その傍ら、白の日傘を差し、涼しげな顔の当人たちは初めて見る異国の学び舎を前に、片や嘲り、片や予想通りといった表情を浮かべていた。初見でその反応は無いだろ、と思いながらもそれを顔に出さぬように、俺はエステルの歩幅が合うようにゆっくりと、構内へ入っていった。

 円教授は俺が在籍している文学部史学科の所属で、史学科の教授達に割り当てられた研究室は、東二号館の最上階。そのうちのE2501R、校舎の南端が円研究室である。学校の南側にある校門からそこまでの距離はさして無いが、少しばかりの話をするには丁度良い距離だ。

「で、円教授の研究室まで案内するのはいいが、どうやって会うつもりなんだ」

 なので、俺は当たり前の疑問をぶつけた。見ず知らずの、ましてや外国人がいきなり会わせてくれと言ったからといって、まず会えるわけがないだろう。しかも仇敵と繋がると思しき人物。一体どんな手を使って、と考えてしまうわけだ。

「そんなの、お前を案内役にしてんだから、決まってるじゃん?」

 ところが、その疑問は苦笑とともに一蹴された。しかも、問い掛けた相手の持つカート型の鞄の上で気楽な顔をしたぬいぐるみに。持ち主からも、確かにつまらぬ質問じゃの、と追い撃ちを喰らったが。そんなに簡単な方法でいいのか、と俺は一瞬首を傾げた後、一つの予想――というにはあまりに幼稚なやり方だけれど――にたどり着いた。

「……まさかとは思うが『遠戚が教授の論文を読んで感じるところがあったらしく、是非会いたいと申していて、その――今日ついてきてしまいまして、お会い戴けませんでしょうか』とか言わせる気じゃないだろうな」

「うむ、お主がそのくらい口賢いのであれば、其れで構わないと思うがの」

 そのまさか。今回は推測が当たってしまったことを後悔した。さっきの発言で確信を持たせてしまったようでもあるし。そもそも、こんな古典的というか定番に思えるやり方で、教授という権威ある位に就く者――確か円教授は、ペルシャ史においてはそれなりに名の知れた教授だと聞いている――をだまくらかせるとは思えないのだが。

「訝っておるようじゃが、だからこそお主に頼んだのじゃ。史学科に属しながら円教授の講義を取らず、教授と大した関わりも持っていない、これがお主を案内役に選んだ条件の一。実際、他人だというのに近付いても不自然なことはそう無いじゃろう」

 東二号館入口の段差にカートが引っ掛かり、クマが危うく落ちかける。エステルは段差に少し苦戦しながら言った。 言われてみれば一理あるだろうか。史学科にいるのだから、史学科の教授に会うことは何ら不思議じゃない。専攻こそ違えど、歴史は時間の繋がりだけじゃなく、地域の繋がりだってある。幸い、俺の専攻はスペイン史、ペルシャを含むイスラム圏とも十分リンクする。ただ、実際調べたことはさして無いが。

「妾もその辺りは確りと考えておる。出来得る限り不自然でないように接近せねば警戒される。それでは単身乗り込む意味がな――」

「エステル様、ボクさまはカウント外なんですか?!」

「――ああ、すまぬ。そうじゃな、妾にはセルマがおったの」

 エレベーターに乗り込んだ辺りで、クマが口を挟んだ。頭に手をぽんと置かれだらしない声を漏らすそいつを見て、ホントにこいつはエステルに心酔しているのだな、と軽く掛かる重力を感じながら考えた。



 水曜の午後は大抵の場合は教授間で会議が行われており、この時間帯は講義が元々開かれていない。そのため、校内では殆ど人の影を――校庭などでは体育会系サークルが活動しているかもしれないが、東二号館は校庭から一番離れた施設である――見ることは無かった。とは言っても、今日は会議が早く終わったらしく、教授達の歓談が準備室のドアの向こうから聞こえた。会話内容までは解らなかったが、時折混ざる不器用な敬語から、生徒が混ざっていることくらいは解った。



 円研究室、在室中と書かれたそれぞれの札がぶら下がったクリーム色をしたドアの前、俺は先程の提案を実行することにいささかの不安を抱いていた。

「当然。決まっておろう」

 エステルはドアに背を向け、閉じた日傘の先を床に走らせながら答えた。この期に及んで何をしているのか。

「い・い・か・ら、お前はとっとと交渉して来い、このダメ人間っ!」

 背後のクマに背中を押され、ドアに危うく突っ込みかけるところだった。意外な力量に正直油断していた部分もあったが。

 フゥ、と俺は溜息を吐き、さらにもう一回息を整えてからドアをノックする。木製特有の小気味よい音が鳴る。それほど間を空けずに、どうぞ、と中から声がした。俺は意を決し、その扉を開けることにした。

「失礼します、円教授。史学科二年の幸塚といいます」

「ん、はいはい、どうかしたんですか」

 一礼して顔を上げると、そこには少しだけふくよかな男性が椅子に座っていた。そこまで老けた感じのない、人当たりの良さそうな印象だ。第一印象だけで人を語るのは良いことではないが、彼とエステルの仇ギルバートという男が友好関係で繋がっているとは、正直考え難い。だが、机の上にレジュメが広がっている以上、彼が円教授その人なのだろう。

「ええと、教授に一つ頼みたいことがございまして」

「はい、何でしょう」

「いきなりで難なのですが――遠戚が教授の論文を読んで感じるところがあったらしく、是非会いたいと申していて、その――今日ついてきてしまいまして、お会い戴けませんでしょうか」

 一字一句違う事なく、ほぼ一息でさっきの台詞を言い切った。正確には、言い切ってしまった、と言うべきか。言われた教授の方は少し呆気に取られた顔をしていたが、すぐに手を顎に当てて、ふむ、と考え込んでいるようだった。

「……やはり、急すぎるでしょうか」

 当然だ、俺が教授の立場なら、日を改めろと伝えるだろう。しかもほぼ初めて会話した生徒の頼みなんて。

「いや、構わないよ。用事もあるから長い時間は話せないけれども――さあ、中に入れなさい」

 聞く訳無いと、思っていた。

「論文に直接意見を述べに来るなんて、殊勝な心掛けだよ。良い友人を持ったね」

 それどころか、嬉しそうにさえ見える。先生という名の付く職に就く者は得てして変わり者である、と言っていたのは誰だったか忘れたが、やはり円“教授”なのだな、と確信した。

「何を暢気にしておる、早く通らせてはくれぬかの」

 急に後ろから声がしたことに気が付いて振り向くと、エステルが少し不満げな顔をして立っていた。それを見て、俺は自分がドアの代わりに立ち塞がった壁になっていることに、やっと気が付いた。そそくさと部屋の隅に寄ると、そこの壁には写真がいくつも貼ってあった。大多数がアラブの方――周囲の人間がターバンなりチャドルなりを着ているので一目瞭然だ――で撮られたと思われるもので、いかにもペルシャ史学者といったものだ。

 振り返ると、エステルはこちらを一瞥した後、日傘を掴んだクマの乗ったカートを引きながら足早に円教授の目前まで進んでいった。教授の方はというと、ここに在るのが意外な人物大学生には見えない少女の登場に少し面食らっていたようだった。

「お初にお目に掛かります、円教授」

 カートを背後に止め、エステルは膝丈より少し長めのスカートの裾を摘んで一礼した。大仰な、とも思ったが、「設定」としてはこのくらいの方が正しいか、とも思い直し、俺は事の経過を見守ることにした。

「君は、どこの出身だい。少なくとも日本生まれには見えないのだが」

 教授は眼を見開いたまま、エステルに興味津々といった表情だ。夕べの俺も同じ思いをしたのだから気持ちはわかる。

「ああ、自己紹介がまだでしたね。私はエステル・エルサ・エイジェルステット、ストックホルムから参りました」

 エステルは俺達と話すときとは全く違う口調で、少し人当たりの良い声で話していた。俺の位置はエステルの斜め後になるため表情を見ることが出来ないが、相当にこやかな顔を作っているのだろうな、と予想できた。教授の顔が曇っていない辺りからも確証は持てた。

「――本当は、バビロンの生まれなのですけれどね」

 さっきまでの言葉遣いの所為なのだろうか、この台詞だけはいやに低く、重く聞こえた。バビロン――古代バビロニアのことだろうか。唐突な単語に俺は正直、困惑していた。

「バビロン……まさか、君は」

向こうバビロンでの名で答えた方が判じ易かったでしょうか。私の真名は、イシュタル――メソポタミアが一柱です」

 エステルがそう告げるや否や、教授はガタンと席を立った。だがすぐにエステルは言葉を続ける。

「何をしようと無駄ですよ」

 彼女はいつの間にか日傘をその手に持っていた。それを自在に回しくるりと輪を描く。一回転し終えた瞬間だろうか、黄色い、強い光が部屋中に広がり、俺は反射的に眼を閉じていた。

「汝の存在、盗ませて戴く。我、イシュタルが名の下に」

 不思議なことに、その言葉の後には何一つ、鼓膜を震わせるものはなかった。





「万事問題無い、眼を開けてよいぞ、理々」

 少しして、エステルの声が聞こえた。今まで音のしなかった分、はっきりと。瞼越しからも強く刺さった光は収まったようで、恐る恐る眼を開いた。

 まず眼に入ったのは、エステルの薄桃色をしたカート。日傘もクマも無いせいか、非常にシンプルな造りに見えた。次に目に入ったのは、頭くらいのサイズはあろう石像。翼があるから鳥類なのだろうが、その胴はやけに長く、翼がもげたならば蛇にも見間違えられかねない、怪物の類に入るだろう代物だ。そして部屋の一番奥、さっきまで教授がいた席の後に、彼女は肩にクマを、左手に日傘を持って、何も起きてなどいなかったように平然と立っていた。

 それが、この部屋の中身の全てだ。円教授が姿を消したことと石像が増えたこと以外、数秒前に見た光景と変わりは無い。

「腑抜けた顔をしおって、そこまで目を丸くすることはなかろう」

「こんなんで驚いてるの? 全くこれだから人間は……それくらい理解しやがれ、ってーの」

 愚痴を零すクマを尻目に、エステルはフゥ、と目に見えるように溜息を吐いた。

 彼女からは、聞きたいことが山ほどある。バビロン、イシュタル、唐突に出て来た単語。それに円教授の動揺、黄色の眩い光。そして、教授の行方に、エステルがしたこと、これから為すこと。何から尋ねればいいかもわからない。音のない世界、意識が揺れる。俺の目の前で起こったことは一体何だったんだ――。














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-This story doesn't end at here.



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