ー2003年5月11日日曜日、長野県千曲市・響の部屋ー 明日――いや、もう今日だけれど――は、灯との約束の日…。 もう既に1時を回ったというのに…私は全く寝付けないでいた…。 ベッドの上で横になっていても、全く眠気を感じない…。 まるで、明日に遠足や旅行を控えた子供のように……私の心は、今にも私から飛び出してしまうかのような鼓動を続けていた…。 「……あと……9時間か……。」 ぼんやりと、意味も無く呟いた。 いつしか、瞼の裏に灯の姿が浮かんだ。 そう、またぼんやりと。 『……ん……、……ぁ……ひ……ちゃ……。』 そのはっきりしない灯の幻影は、唇を動かして何かを伝えようとしていた。 何を言わんとしてるか聞きたくて近くに寄ろうと動こうとしても、何故か私は動けなかった。 その刹那私の耳に、確実にその声は…届いた……。 『ごめんね…、さよなら…ひびきちゃん…。』 …思えば、この時に予感はあったのかもしれない。 けど、私はその予感に頭を振った……信じられるわけが無かったし…信じたくなかったから…。 |
ー2009年1月29日木曜日、埼玉県さいたま市北区・陸上自衛隊大宮駐屯地ー 広大な土地の一角にある兵舎。その地下の、窓がないためか電灯が点いているにも拘らずどこかほの暗い廊下。 そこを、まるで戦中にでもタイムスリップしたかのようなカーキ色の軍服を着た人物が、栗色の短い髪を小刻みに揺らしつつ歩を進めていた。 しかし、その光景が戦時中のことを思わせないのは、その人物が女性だったからである。 また、その女性のプロポーションが実に見事で、尚且つ、街ですれ違ったなら思わず振り返るだろう程の可愛らしさの持ち主であったこともその理由の一つである。 そして、彼女は『化学実験場』と、あまり良い響きのしない名前の書かれた扉を躊躇う事無く開き、中へと入っていった。 …広く、無機質なコンクリートの壁に囲まれた、非常灯くらいの光しかない暗い部屋。 中で待ち受けていたのは、学者がよく着る白衣を身に着けた、上背が160あるかどうかくらいの、長髪で眼鏡の似合う女性だった。 「…よく来てくれたわね、瑞穂ちゃん?」 白衣の女性ー宮浜架月ーは彼女に言った。そして、彼女ー羽岡瑞穂ーはその声を聞いて少し口元を緩ませ答えた。 「いきなり呼び出しなんて…何かあったの、架月姉ちゃん?」 「…あのさ、もう“架月姉ちゃん”なんて呼ばないでよ。昔は良かったけど、今の瑞穂がそう呼ぶのは似合わないと思うんだけど?」 架月は質問を流して、瑞穂の軍人としては不必要なくらいの豊かな胸や、少々童顔ながらも人を惹き付けてやまぬ顔を順繰りにじっと見つめつつ言った。 「私のことを“ちゃん”付けで呼ばなくなったら考えてあげる。」 その架月の言葉に、フッと笑いながら瑞穂は返した。 「じゃあ何?“未来の陸上幕僚長、羽岡瑞穂二尉さま”とでも呼ばれたい?」 事実、23歳10ヶ月にしての二尉への昇進は異例のスピードである。あながち、架月の冗談も冗談ではなかったかもしれない。 「私がそうなれるほど長い未来があれば、そう呼んで頂戴?」 架月の言葉に、瑞穂は素っ気無かった。 「ま、そんな暗い事言わずに…その未来のために、今日は呼び出したのよ。」 急に架月の顔は真剣になった。 「……一体、何?」 意味をつかめぬ瑞穂は、すぐに架月に聞き返した。 「…これを、見てほしいの。」 架月は手元にあった部屋の照明のボタンを押した。 「!!?」 ー2003年5月11日日曜日、長野県千曲市・奥代駅ー 白のTシャツ、ジーパン生地の上着に、ベージュのパンツに身を包んで、私は駅の東口に立っていた…。 …9:30……。 少し早く来てしまった……。いつも時間通りなのに…らしくないことである……。 さらに、夢見が悪かった所為か…少し眠い…。 雲など全く見当たらない空の下、私は襲ってくる眠気を堪えつつ灯を待っていた……のだけれど。 眠気という敵は、結構強力で。 次に気がついたとき、私の目の前には…植え込みに植わっている低木の葉……遠くには…青い空が見えていた…。 私は腰が少し痛むのを知覚しながらも、状況を掴めぬまま呆然としていた。 「響ちゃんっ!…だいじょうぶ?」 私の視界を、灯の顔が覆った。いつもの髪型ではなくて髪をそのままおろしていたけど、すぐにわかった。 「……一応…。」 少し心拍数が上がったのを感じながら、ぼんやりと答えた。 どうやら私は…眠気に負けて植え込みの中に突っ込んでしまったらしい…。 私は灯に促されるがまま、切符を買い、丁度のタイミングで来た電車に乗り込んだ。 …10:10……。 何時の間にか40分の時間が経過していた。 長野へと向かう電車の中…私は腕にした時計を見て、フッと溜息をついた…。 そして、改めて灯のことを見つめた。 座席に座り、ほぼ同じ目線で楽しげに私に話しかける灯。田舎の、幾人しか乗らぬ車両内に灯の声だけが響く…。 ふと、灯の服に目がいった…。白のワンピースに白のカーディガン。その白が灯の白い肌に相まって、いつも以上に可憐さを醸し出していた。 手を伸ばして…自分に引き寄せて…抱き留めて……自分のモノにしてしまいたかった。 けど、灯はどこか遠くへと目を向けているような気がした…。私ではなく、その後の…遥か後方の何処かを……。 今日見た夢で言っていた…あの言葉……。あれは……… 「……ちゃん?響ちゃん?」 「えっ!あっ……な…何…?」 「とにかく、そのカッコじゃ渉さまのコンサートなのにシツレイだから、服屋さんに寄ろうって……聞いてなかったなぁー?!」 …そうだった…。“灯との外出”ということばかりが先行して…今日の目的がコンサートである事を…すっかり忘れていた……。 「ひーびーきーちゃーん?」 「あ、灯っ…そんなに寄ったら……わあっ?!」 「ひびきちゃ……ひゃっ?!!」 …とりあえず、私の体重を支えていた手が滑って…後へ倒れこんでしまったのはわかった。 しかし…一体如何してこのような体勢になってしまったのだろう…。 気がつけば車両の床の上……床に仰向けに転げた灯を覆うように私の身体はあった。 「「……………。」」 私たちは、そのまま暫らく呆然としていた…。 灯の顔は私で陰になっていながらも、紅く染まっているのがわかった。 口はぽっかりと開いて、眼は瞳孔が小さくなりながらも…真っ直ぐ私を見つめていた…。 髪が少し乱れて…一束か二束かが口元にあった。 自分の心臓の音を…やけに大きく感じた……。 「………ひ、ひびき…ちゃん?」 …自分の名前を、ゆっくりと紡ぐ…しっとりとした唇。問いかける声に答えられないほど…私の心は囚われていた…。 「……あ、あのさ……み…見られてるから……。」 はた、と周りを見渡すと…同じ車両にいた何人かが、好奇の目で私たちを見ていた…。 私は急いで灯の上から退くと、灯が起き上がるのを手伝いながら席に戻った…。 「……さ…最初は……本屋さんに行って…レンタルCD屋さんに行って……それから、服屋さんに行こう…?」 恥ずかしげにそう告げた灯は…それから長野に着くまで、一言も発しなかった……。 ー長野県長野市・長野県県民文化会館楽屋ー 俺は集合時刻の10分前に、自分が入るべき楽屋の戸を開いた。 「お早う御座います。」 其処で先に待っていたのは、今日のコンサートの主役である檜山渉だった。 「あなたが、今日のピアニストの…」 多忙ということもあって、リハーサルもまだ行っていない。こちらは事前に顔を知っていたが、向こうは書類でしか知らされていないのだろう。 「えぇ、常葉交響楽団ピアニスト、但馬将隆です。」 俺がそう言うと、彼は俺に手を差し出した。 「ヴァイオリニストの檜山渉です。本日は宜しくお願いします。」 「こちらこそ、宜しくお願い致します。」 差し出された手を握り、お決まりの挨拶をした。 彼は笑顔だった。自分の出身地である長野での凱旋コンサート。彼には相当喜ばしいことであろう。 全く、暢気なものである。この後自分がどう貶められるか、知らぬのだから…。 「では、早速リハーサルの方を行いますので、ホールの方へ…」 彼の陰に居たマネージャー風の…まだ見習いであろう人物が言った。 「本番まで、あともう少しかぁ……。」 感慨深く、浸っていられるのも今のうちだ……。 ここが、お前の終幕の場だ…。 ー長野県長野市・長野県県民文化会館入口ー 私は、灯と共に開場を待っていた。 灯は落ち着きを失くして、絶えず体のどこかを動かしている…。 私はというと…逆に落ち着いていた…。いや…心の中は全く落ち着いていなかった。 檜山渉に会える、という理由ではない…。ましてや…灯の仕草が可愛らしいから、という理由でもない…。実際、可愛いのだけれど……灯にこんなことをさせてしまう檜山さんに…少し妬いてしまうのもまた事実だ…。 …話がずれたが……私の問題は…私の服装に在った…。 今、当に私が着てしまっている服装は………スリットが、腰に届かんばかりにまで入った……藍色の…チャイナ服だった…。 そう…灯が私を散々着せ替え人形にした挙句に選んだ服装が…これだったのだ…。 しかも、しっかりと扇付き…さらには髪まで三つ編みにされて…。 ……灯がコレを選んだ理由は……『響ちゃんは脚も長いし、スタイルもいいし、とーっても似合ってるよっ♥それに、中国ではれっきとした正装なんだから♪』…とのこと…。 目立たぬように…目立たぬように…私は平静を装っていた………が、それ以外にもう1つ、問題があった。 「……ねぇ、灯?」 「なぁに?響ちゃん?」 「…あの……開場まで…あと1時間……なんだけど…?」 …そう。まだ、開場まで1時間……。席は指定席なので、今から並んでいても意味はない……よって、ここにいるのは報道陣か…相当熱烈なファンくらいである…。 「だって……もしかしたら、こっそり渉さまが出てくる、ってことがあったら…。」 ……目がウットリとしていて…すっかり夢世界であった…。さらにはクルクル回り始めて……。 …ドンッ……。 「はにゃっ??!」 「!!?」 思案を廻らせていると、白いワンピースの少女に激突した。 「…あうぅ〜…ごめんなさいぃ〜……」 打ったのか、腰を押さえながらこちらを向いて頭を下げた。 「…いや、こちらこそ……」 「灯っ、大丈夫?!」 言葉を続けようとすると、深青のチャイナ服に身を包んだ少女が駆けつけてきた。 「うん〜…だいじょうぶだよ〜、響ちゃん……痛っ…。」 灯、と呼ばれた少女は立ち上がったところで、少し顔を歪ませた。 「あっ、灯っ!ほら…私に掴まって……」 「う、うん……ありがとね、響ちゃん…」 そうして立ち去っていく途中、響と呼ばれた少女がこちらを向き、軽く会釈をした。 ……響に…灯…。あぁ、そうだ。彼女達が常葉様の言っていた『ユーティライズ』……。 …そうと判れば、恨みは無いが……とことん利用させてもらおう…。 ー長野県県民文化会館大ホールー …開場から席に着くまでは、意外とスムーズだった。何かしらあるかと思っていたが…特に滞りなくここまでたどり着いた…。 ただ、人にぶつかって尚、灯は落ち着くことはなく、ここに来てさらに緊張を強めていた…。 「ね…響ちゃん……あ、あと…い、1分だよ…っ……!」 小刻みに震えながら、灯は開演の時を待っていた…。 だが、開演を前にして…私はまたも睡魔に襲われていた…。 非常に不謹慎な話なのだが……もしかしたら、演奏中に眠ってしまうかもしれないと思った……。 少しずつ虚ろになる視界を…懸命に元に戻そうとする中……灯が、「かっ、開演だよ…っ…」と震えながら呟いた。 と、同時にブザーがなり、緞帳が上がった。 会場中が拍手に包まれた…。 徐々に上がる緞帳の後で、今回の主役の檜山渉さんが、一礼して客を迎えた。 そして、ヴァイオリンを持ち上がり、弓が弦に触れた。 いよいよ…始まる……。 |
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